カッコ良さとは何か...
新御三家
【2018年5月記載】私が高校生の頃、1970年代の前半、まだ高度成長期のまっただ中で、日本の歌は歌謡曲と言っていた時代、テレビ放映はアイドル歌手の花盛りであった。それこそ私と同年代の歌手たちが、次々と、どんどん湧き出てくる感じで、ブラウン管を賑わわせていた。
もちろん、私も興味はあったけれど、歌謡曲なんてものは音楽のうちとは思っていなかった。海の向こうのものが一番いいと思っていた。ポップスやロックに夢中だったし、音楽はテレビよりもラジオやステレオで聴くものだった。テレビは演歌や歌謡曲を聴くもので、世界の音楽トレンドからは遅れたものだった。
だから、アイドルと呼ばれた若い流行歌手たちは、テレビ局や音楽業界につくられたもので、真の音楽アーティストではないと感じていたし、少しばかりさげすんだ目で見ていたように思う。ビートルズやS&Gとはレベルが違う。
そんなアイドル歌手の中で、私と同学年の野口五郎、西城秀樹、郷ひろみ、いわゆる“新御三家”と呼ばれていたこの3人にも同じ印象を持っていた。作られたアイドル、見てくれだけでカッコだけの中身のない奴らだと。もちろんやっかみもあっただろうけれど、曲も歌詞も振り付けも、あてがわれたものをただこなしているだけで、彼ら自身からのメッセージというものは全くなかったのだから、そんなものだったのだろう。
流行はいずれ廃れていく。アイドルたちも歳をとって、より大人になっていくにつれて、彼らの商品価値は薄れていき、いつしかテレビに映る姿を見ることはほとんどなくなった。それでも彼らは完全には消滅しなかった。テレビに映る頻度は極度に減ったけれど、依然として存在感はあったし、コンスタントに活動し続けていた。
あれから40年が経った。最近、彼らに対する私の意識、感覚が変わってきていることに気づいた。反感が親近感に変わっている。あの上っ面だけで中身のないように思えていた彼らの生き方が、今では時々説得力をもって、私の心の中にストンと入ってくる。共感を覚えることがあるし、テレビに映る彼らの姿にエールを送っている自分に気付くことがある。お互いに歳をとってしまったということなのか。同じ年月を共有してきたという仲間意識が私にあるのだろうか。単に昔を懐かしんでのことなのか。
彼らは、当然のことではあるけれど、すでにアイドルではなく、ひとりの歌手として、芸能人として生きている。しかも、その活動には、長年の苦労、努力、積み上げてきたものが垣間見れて、とても納得できる。歳はとっているにしても昔と変わらないカッコいい姿でテレビに映し出されているし、ひとつひとつの言葉なり、動作にも味わい深いものを感じる。
すべてが、自らの中から発しているのが分かって、スッと私の心の中に受け入れられるものになっている。この40年あまりの間、何がしかの努力を重ねてきていることが感じられて嬉しくなる。今の自分をそのまま出しているように感じる。カッコつけているのだろうけれど、それがとても自然に見える。上っ面のカッコ良さではなく、本当のカッコ良さというべきものだろう。ありのままの自分をさらけ出すカッコ良さというべきものなのか、ありのままのレベルが高くなって、それがカッコいい。ありのままの自分に自信を持っている。私はテレビの画面を通してだけしか分からないけれど、彼らはこの40年間ずうっと努力し続けているのだと思う。それがカッコいいのだろう。
そんな事を感じていた矢先、西城秀樹が亡くなった。少し早すぎる。病気には勝てなかったけれど、彼なりの人生をカッコよく生きぬいた。晩年の西城秀樹は不自由な体で、往年のスタイリッシュさはなかったけれど、それでも昭和のアイドルは最後までカッコ良かった。

