30年が経ち、自動車はそのファッション性を失った...
自動車
【1996年6月記載】
人は何故いい車に乗りたがるのだろうか。もしくはいい車を持ちたがるのだろうか。
人は人と人との関係の中で生きている。だからそこに生まれる欲求も欲望もすべては人と人との相対的な比較の中で生まれてくる。
「私は他の誰よりも大きな家に住んでいるし、お金も沢山持っている」
「空気の悪いこの街に住むのは体に良くない。私の街の方が少し田舎だけれど、空気はうまい」
「このネクタイは先日デパートで買ったものだから、していて恥ずかしくない」
「これは外国で買ったブランドものだから、みんなが持っていないので格好いいだろう」
とか、すべてに於て多かれ少なかれ知らず知らずのうちに、他人と比較しながら生きている。その比較対象のうちで典型的なものが自動車ではないだろうか。今の社会では自動車イコールその人そのものであるがごとく思っている人が随分といるのではないか。でなければこんなにも次から次へと自動車が売れるわけがない。
誰もみな自動車に乗って生活をしている。会社に行くのも自動車、買物に行くのも自動車、そして子どもの塾やお稽古ごとの送り迎えまで自動車でする昨今、自動車はもはや人々の手であり足でありその人の顔であり、極端に言えば人格そのものの様に感じている人も少なくない。自動車を見ればそれに乗っている人のおおよその見当がつく。車高の低い車はヤンキーのにいちゃん、遮光フィルムで窓を覆い中が見えにくい黒っぽい車はヤーさん、ちょっと年代もののセダンは家を新築したばかりのサラリーマン、ベンツはやっぱりお金持ち、ボックスカーはアウトドア指向のヤング&ミドル層....。
自動車は日常社会でのその人の名刺もしくは肩書のようだ。だから、高級車に乗っていると何だか偉くなったようで横柄な態度になり、道を走っていてもそこどけそこどけで多少の割り込みなんかも平気でするわがまま運転、逆に中古の小型車や軽自動車に乗ったら、思わず道を譲ったりスピードを落としたり、少し遠慮がちに走ってしまう。おそらく誰だっていい車に乗りたいだろう。私だって出来ればベンツやジャガーに乗ってみたい。そうすれば出会う人誰もが少なからず私(私の車)に尊敬にも似た驚きと羨ましさを覚えるであろう。そんな雰囲気を味わいながら、私はしばしの間優越感に浸れるのだが、「俺は凄いだろう..」と。
しかし実際のところ自動車は何のためにあるのかを考えれば、そんなことはどうでもいい事なのである。走れさえすれば良いのだ。今の時代、車の性能の良し悪しなんてそんなに違うものじゃあない。居住性の良い悪いや、燃費の差、事故発生時の安全性に多少の違いはあるものの、日常生活に於ける自動車としての役立ち度合は、ほとんどすべての車大差無い。あるのは自動車社会が発達したお蔭で、日常何事をするにも人々は皆自動車を使うようになったが為の、自分の分身としての自動車という存在があるだけである。別に壊れた理由でもないのに、2年や3年で自動車を買い換えてしまう。自分の年収にも匹敵する程の何百万円というお金を自動車に投資してしまう。結局みんな自分の欲望というものをそこに求めているからなのだろう。私だって新しい車は欲しい。ただ経済的に出来ないだけなのだ。
冷静に自動車そのものの価値を考えると、今私の乗っているコロナ(もう10年目になるのだが)でも十分役に立っているし、これからもあと4~5年は乗れるだろう。けれど車社会の中で育った私にとっては、残念ながら私の分身にも見栄を張って生きて行かなければならない様な、そんな気持ちがしてしまう。
自動車は今や一つのファッションなのである。人々は自動車という顔を持って生きている。しかしいつまでも自動車が顔であり続けられるのだろうか。今後情報通信は経済成長の中心として発展していくであろうし、それに伴う在宅勤務の促進やインターネットの普及による消費形態の変革も進むに違いない。そうなれば人は移動する事なく生活できるようになり、自動車の実用性も失われていくかも知れない。自動車がそのファッション性を失い、意外と住宅そのものがファッション性を帯びた存在にだって成り得る事も考えられるのではなかろうか。
いずれにしても人類全体から見れば、自動車という随分と無駄な事にエネルギーを費やし、エントロピー的破局に向けて人類自ら加速をはかっているのは何ともし難い。いい車に乗れないやっかみも手伝ってか、何とかしてこの自動車社会くたばらないものかと、ついつい思ってしまう。

