人と人とを比較するのはおかしい..その人が頑張っていればそれが一番だ
能力
【1996年6月記載】
企画の業務を離れて2ヶ月が経つ。精神的にも肉体的にもとても楽になり、少しゆとりが出来てきた。そのせいか最近では所内の誰彼となく会う人に「とても楽しそうだなあ」「少し顔が穏やかになったよ」とよく言われる。それほど以前は汲々として、周囲の人が取り付く島が無い程業務に追いまくられていたのだろう。
企画の仕事は私なりによく理解し、そつなくしっかりとこなしてきたという自負もあり、とても性に合っていたようだ。(私は実力が伴わないけれど自信家なものだから、企画だけでなく他の仕事だってやれば出来るという気持ちもあり、企画の仕事に固執している理由でもないが...) しかし、そういう状態でも端から見れば「大変な仕事だ」と思われるくらい、きつい業務だったのだろう。それでも企画という仕事は、所長直結であり研究所運営の要であり、それなりに「私がこの研究所を動かしているのだ」という幻想にも似た優越感というか、選ばれた者意識を与えてくれた。そしてこの妙に自尊心をくすぶるような力に引っ張られ、華やかな舞台で踊るがごとく、自分自身の欲望を満たしてくれるには充分な仕事であった。丁度、官僚のミニチュア版のように...。
その様な仕事に6年近くも従事していると、企画の仕事を離れた今でも、私自身の中にも華やかな舞台を引きずった部分が残っているのか、はたまた馴れ親しんだ企画という仕事に未練があるのか、どうしても企画の仕事に必要以上に注目してしまうようだ。
「こんな会議は、あれとこれに気を付けて、予め準備しておかなくては...」
「報告や通達等の書類は、こう書いた方が良いのに…」
といった具合いに、ついつい思ってしまう。
今度新しく企画のリーダーになったKさん、頑張ってはいるのだけれど、どうにも私の目からするととても物足りなく感じてしまう。
「もともと彼にはこういう仕事は無理なんだ。なにせ思い込んだら一筋タイプで、ある特定のものに深くのめり込んでしまい、全体を広く見渡し同時にいくつもの事を処理していくのは苦手なのだ。生まれながらの技術者なのだから、事務系の仕事、どちらかというと文化系の素養が要求される企画の仕事は、簡単にできるというものではないョ」
という思いもある。裏を返すと自信過剰の現れなのだろうが、どうしても辛口評価になってしまう。私の後継は私が決めたかったという思いは強く残っており、責任をもってきちっとフォローできる状態で、この仕事に向いている人を推薦したかった。だから今の企画は惨憺たるものに感じてしまい、研究所の窓口としてこれからの運営が心配でたまらない。いくら組織を新しくして、現場責任者を増やしたからといっても、企画は私の抜けた分、一人分のパワー不足にはなるのだし、間接部門の効率化という名目で総務センターの人事、総務、経理の業務が研究所の企画に振られる傾向にあり、企画の仕事ボリュームはどんどん増えつつある。人員補強しようにもこの経営状況の中ではスムースには実現しない。かわいそうにKさん、毎晩10時まで仕事に追いまくられストレスも極度に溜っている様子、にもかかわらず周囲の評判は良くない。企画の華やかな一面に、やる気を奮い立たせて臨んだことだろうに、今ではすっかり意気消沈だ。
人の能力は何で決まるのか。学校教育のような知識偏重的能力比較だと、同じ課題を与えて知っているか知らないかで、あるいは解けるか解けないかで簡単に出来る。しかし世の中こんな事では人の能力というものは測れない。研究開発の仕事でもまさか同じ目的のものを幾つも同時並行で走らせることは、コストや人材面でとても出来ない。だから幾つもの違う目的の研究開発テーマをやることになるのだけれど、その評価はとても難しい。けれど同じ様な形態の仕事、例えば企画の様な仕事なら、それを推進する人が替わると、多少の環境の変化はあったにしても、自ずと前の人の方が良かったとか、今の人はもう一つだとか、結果を交えて比較することが出来る。
人の能力は相対比較で決まってしまうのである。いくら出来る人でもそれ以上出来の良い優秀な人たちの中では霞んでしまい、相対的に出来の悪い人になってしまう。逆にずば抜けて優秀でなくても、レベルの低い集団の中に入ってみると、少し抜きんでて良く出来る奴だということになり、本人もその気になってついつい努力し頑張ってしまう。所詮、人の能力なんてこんなものかも知れない。他人と相対的に比較し、自己の能力に自信めいたものが表れると人はその能力を発揮し出すのか。
頑張る気になれる分岐点というものがあるのだろう。生き物にはそんな集団の中で生きる時の法則みたいなものがあるのではなかろうか。もしそうならば、どうせ何がしかの集団に属さなければならないのなら、そこそこの能力集団でしかも自分の力が優位に保てそうな集団を選択するのが一番良いという事か...。一緒に仕事をする仲間は自分よりも若干能力的に劣っている方が良い。しかし、一方で友人なり知人は出来るだけ優秀な人がいい。同じ集団に属さないのなら、自分の能力向上にプラスになる人間、自分に無いものを補ってくれる人間とつき合うのがベターである。
同じ仕事をする場合、相対比較であるから人の能力が如実に分かってしまう。だから、自分の前の人や自分の後を引き継ぐ人に対して、出来るだけ自分が優位に見える方がメリットは大きい。そんな考え方に従って仕事をするのなら、あまりにも優秀な後継者やナンバー2は要らない。自分の事だけを考えるのならば…。
実際、Kさんが私の後をてきぱきと新しい取り組みも交えて、効果的にかつ効率的に業務を進めていったとしたらどうだろう。ある面では私が良い状態で引き継ぎフォローも充分だったという評価もあるかも知れないが、大半の人は「なかなか優秀な後継者だ。前任者もこれくらい出来たら良かったのに...」という感想を持つことになるであろう。往々にして人間というもの、その時の状態しか見えないことが多い。今の状態の前後そしてその背景を良く見て、人の評価はしなくてはいけない。そういう点で、今のKさん状態の原因は私にもあると言えなくもない。
一方、組織として他の組織よりも優位性を保つためには、その組織の中の一人ひとりが「私には能力があり、やれば出来る」という様な意識を持つなり、自信を持つことがとても効果的であると言えそうである。ごく限られた一部の人間のみがそう思うのではなくて、全員がそういう意識になれば途轍もない力が発揮出来そうだ。そう思い込ませ、やる気を出させていく手法というのが、組織を動かす上では大切であり、そのために経営者はいろいろと考え、工夫を施しているのである。
おそらくそういう意識を植え付けようとした良い例が、松下幸之助のとった事業部制であり、「社員稼業に徹する」という事なのであろう。ある適正な規模の組織の細分化とその独立性の尊重、さらには社員一人ひとりが主人公だという動機付けは、生きる物の本質的な欲望をそそるものなのだろう。
疑似的な8割の捨石があれば、みんな気持ち良く仕事ができるのだろうけれど。


