この30年間、同じ問いを繰り返してきたように思う

人生の重点化

【1996年4月記載】

古くからアメリカに伝わる諺に、
    100を切れないゴルファーは、ゴルフをおろそかにしている。
    90台で回るゴルファーは、家庭をおろそかにしている。
    80台は家庭も仕事もおろそかにしている。
    70台は? ゴルフ意外のすべてを犠牲にしている。
というのがある。

しごくもっともでありちょっとゴルフをした人ならば、思わず納得してしまう。かように人生というものは限られたものであり、誰もみな1日は24時間であり、人のやれることには限界がある。何事か力を入れてしようとすると、ほとんどの場合何か別なものを犠牲にしなくてはならない。しかし一方で人の能力には差があり、何事にも長けている人もいれば反対に何をしても駄目な人もいる。また1日を有効に使い、24時間全く無駄のない生き方をしている人もいるだろう。だがそれでもやはり限界はある。いくら能力があるからといっても全く性質の違う事柄に3つも4つも精通し、その道の第一人者になれる人など有りえないし、24時間をいくら有効に使っても、24時間は24時間であり、1日の半分をボーとして過ごしている人のせいぜい倍にしかならない。人生やれることはたかが知れている。

  けれどしたい事が山ほどあるのも人生だ。生きて行くためには仕事もしなくちゃあいけない。仕事は仕事でも、ルーチンワークだけでなく何か自分というものを表現できる創造的なことをやろうと思えば、仕事だけでも大変だ。趣味でもやりたい事はたくさんあるはず。スポーツならゴルフ、テニス、水泳にスキー...。園芸もやりたい、日曜大工も楽しそう。芸術的なものなら油絵も描いてみたいし、ピアノだって弾いてみたい。推理小説なんかも書いたら面白そうだ。本を片手に旅をするのも悪くない。どれでも良いから徹底的にやってみたい思いは強い。しかし人生はやりたい事全部に手を初め、やり遂げられるほど長くはない。

  しからば、お金で時間は買えないのか。…答えはイエス。炊事、掃除、洗濯そして育児、日常の生きる為にしなければならない仕事はお金を払うことによって、そのほとんどが省略可能になってくる。また自分のやりたい事をするために要する時間とエネルギー、例えば移動するため、情報を得るため、ストレスを発散させるための幾つかはやはりお金によって何とかなるものだ。だから人生の価値をあくまでも創造的活動に置くならば、お金を使って"ムダ"を省き、その創造的と思われる活動のみをやっていればいいわけである。が、果してそれだけやるのも人生の基本をないがしろにしている様で、何だか変な気がする。それはやはり、そこそこにムダと思われる事もしてはじめて人生の価値が分かるからであろうし、そのムダを省いた事くらいでそんなに大きな事ができるわけでもなく、いろいろな事に手を出しても納得のいくような結果を簡単には得られるわけでもない事が、漠然とながらもあらかじめ想像がついているからである。

  やはり大切なのは限りある人生であるからして、何に重点を置いて生きていくのか、それをハッキリさせることだろう。たとえそれが他人からどんなに揶揄され様とも、自分で納得できるもので周りの人々に大きな迷惑をかけないものであれば、それでいいと思う。

  けれど40年生きてきても私にはそれが無い。人生における重点目標が無い。「これがしたい」「これこそが私の人生だ」と言い切れるものはまだない。どうしてもそこそこに何でもこなそうとする。仕事は仕事で「これがやりたい」「こういう業務に就いてこういう成果を出したい」という強い思いはなく、ただ与えられた仕事を自分なりに精一杯努力しながら効率よく、効果的に成し遂げようとするだけである。日常の家事の手伝いや同僚との付き合いもほどほどに、趣味もこれといったものに打ち込むでもなく、人並の事を人並にするだけである。

  この世の中に生まれてきた以上、やはり生きた証を残したい。残して何になるんだという気もするけれど、生きる軸を見つけてそれに人生を賭けてみたい。単なる仕事馬鹿に終わるような人生でなく...。もちろん、家事と育児に人生の重点を置いているであろう主婦である妻の力なしでは出来ない相談なのだけれども…。