株主第一?...こんな会社は長続きしない。この30年間がそれを物語っている
効率化とは
【1996年5月記載】
このゴールデンウィークに家族揃って、2泊3日で六甲山にある我が社の保養所に行ってきた。民族大移動の混雑の中ではあったけれど、とてもゆったりと楽しく過ごすことができ家族全員大満足で帰ってきた。私も久しぶりに心身ともにリフレッシュできて、我が社という会社に感謝を覚えとても有難いと思った。妻も日頃の家事から開放されてとてもハッピーな様子、何よりも食べて泊まってその内容の良さと料金の易さにはいつもびっくりさせられるようだ。
つい先日も母の古希のお祝いをしようということで、家族全員が集まって京都の保養所を利用させて貰ったのだが、一族14人が大宴会をゆったりとおこなうことができ、多少なりとも親孝行が出来たということで、我が社という会社の有難さを感じたばかりであった。
ところで入社して一番に素晴らしいと思ったのは、取るに足らないことのようだけれど、各社員の誕生日に誕生祝いをくれることだった。私の記念日に会社としてもお祝いをしてくれる。その金額や物の善し悪しは問題ではなかった。その心意気が嬉しかった。また、子どもたちが小学校に入学するときには、社長直々のメッセージを入れたラジカセをプレゼントして貰った。娘が言った。「社長さんの声が聞こえる」「そうなのだ、この声の人が私たちを見守ってくれている偉い人なんだよ」と、心成しか気持ちが弾んだ。
この様に会社が社員の暮しの豊かさを願って、福利厚生の面での充実をはかり、その思いを込めた運営を推し進めてきたことは、「経営とは何か、単なる物や金の収支だけではないよ」といった、創業者の心が伝わり我が社の底力を見るようで嬉しい限りであった。金銭や物といったように定量化することのできないパワーを、社員一人ひとりに醸し出させていた創業者の知恵を伺い知る事ができた。人は必ずしも物や金でのみ動くものではない。人を動かす力には心と心の結びつき、あるいは心の底から湧き上がるものが、とても大きな因子となる。それは理性を越えた、人が生きるための総合的な力を生み出す感性に訴えるものが大きく作用するからであろう。
とにかく我が社には社員をその気にさせる風土がある。いや、もしかして"あった"という方が適切かも知れないが..。兎にも角にも良い会社なのである。がそれも、もう長くないであろう。知ってか知らずしてか、今の我が社は業績や物、金の収支にのみキュウキュウとし、経営の特定の面だけを追い求め、本来の経営というものを忘れてしまっているのではないか。人と物と金、特に人というものを考えるゆとりを失っている様で情けない。
すべては経営数字に表される。しかしあまりにも定量的なものにとらわれ過ぎている。だからここ数年経営のトップ陣から出る言葉は、「効率をあげろ。無駄なものは省け」「コスト削減を徹底化しろ。特に間接部門は効率化し、人員も可能な限り削減しろ..」ばかり。
効率化を謳って経営責任者たちが打ち出した施策には碌なものがない。今までの活きた心を潰していくだけのものが多い。間接部門すなわち人事、経理、総務関連の効率化という名のもとの単なる人員削減、そしてそれに伴う諸業務の直接部門への移管。直接部門の負担増は各事業場で見られる現象である。私の勤務する研究所にとってもこの傾向はここ10年間続いてきており、人事課、経理課、総務課は廃止され、その仕事は総務センターの中の一部の部門が兼務するという形態をとるに至っている。それが為開発現場では伝票の整理、人事連絡、諸行事の準備や後片付け、設備の点検や補修、メール運び等負担は増え続けている。それだけならまだ良いのだが、これらが単発的で全体としての流れを把握する部門が無くなったので、計画的な運営が出来ていない。その結果トータルとしてのムダやヌケがかなり発生しているのである。目先の効率化は決して全体としての効率化にはつながらない。
折しもこの5月、社内福祉制度の今年度新規募集に際して、諸制度の見直しがはかられた。昨今の社会情勢の変化への対応と会社経営の観点からの制度改革だとは思うのだけれど、その内容を見て愕然とせずにはいられなかった。すべてが無くなろうとしている。これまでの我が社の良さ、強みを自ら捨て去ろうとしている様に見えるのである。一体会社は何を考えているのだろう。
住宅積立金制度はその利率が8%から5.5%へ下がる一方で、今まで借りていた住宅資金融資は3.5%と市中銀行の金利よりも高い設定のままである。また、持株奨励制度もその補助額は20%から10%へと下がり、株券の自動交付も千株から5千株へと上昇し、なかなか自分の手元に株券を持つことができなくなってきた。グループ生命共済も定年コースが無くなり、定年後の保障も無くなり始めている。もちろん先の誕生日祝いや入学祝いの制度は何処かにふっ飛んでしまった。
偏に会社自体が大きくなり、従業員一人ひとりの面倒を見切れなくなったとか、それに対する出費が途轍もない額になるとか、あるいは誕生日祝い等の僅かなことをしてもそんなに喜んで貰えないなど、合理性や効率性を追求するあまり、それらが今までにしてきた役割や意味あいが失われてしまったかのようである。例えば株券を手にした時の株主になった実感と会社との一体感の芽生えとか、住宅手当がなくても住宅取得への会社のバックアップを信じて疑わない気持ち、何よりも我が社は社員に対して特別なんだという信頼感そして会社に対する誇り、それらが私たちをして働く意欲を掻き立てていたのに、つまらない目先の効率化なんかに拘って、もっと大きな大切なものを失おうとしている。目先の目的馬鹿的な責任者ばかりがはびこる会社になってしまったのか。
企業は利益をあげてこそ、その存在価値がある。これはまさにその通りである。しかしその為の方法論的な取り組みのみでそれを追求しても、それは一時しのぎにすぎなく、本当の意味での社会的貢献による利潤の獲得とはいえない。目先の利益ばかり追っていると、その中に生きる人間が荒廃してくるに決まっている。業績がおもわしくない、なかなか業容が伸びない、利益が出ない、売上を伸ばしたいが今の低成長時代しかもバブル後の極端な不景気ではそれも侭ならない。収入が伸びないのならば、自ずと出ていくものを抑えようとするのが普通の人間である。よって合理化、効率化、ムダの削減となってくる。ムダを無くし効率よく仕事をするのはとても良いことだけれど、そこに人がいることを忘れた効率の追求はトータル的に見れば返って逆の作用を生むことがある。表面的な数字合わせの削減や効率化をしていくと人の心が離れていく。今こそ人の心の分かる、人の力をうまく使える本来の我が社の経営というものが問われているのではなかろうか。
ただの会社に成り下がってはいけない。経営哲学を持った会社であり続けたい。もっと大きな価値を目指して経営責任者は取り組むべきだ。そうでないと働く仲間に申し訳ない。

