人との交わりはストレスを生む...でもそれが人を育むと思う
リビングダイニング
【2008年3月記載】
結婚して間もない頃、都市住宅整備公団の宅地募集に応募し、たまたま当選したので、両親に援助してもらい、何とか土地を購入した。若いということもあり、十分な資金も無かったので、とりあえずという感覚で家を建てた。したがってとてもシンプルで小さな家となった。100㎡で3LDK。それから25年が経った。子どもも3人生まれ、それぞれが部屋を持つようになった。一番大きな部屋を2つに区切って、子どもに割り振ったので、私たちの部屋も確保でき、何とか成り立っている。
リビングはダイニングと一緒の空間となっているので、自然と家族全員がこのリビングとダイニングに集まることになる。加えて、我が家にはテレビが1台しかない。それも今もってブラウン管式であるが。したがって、一層、この空間に家族みんなが集まる機会が多くなる。テーブルは2つある。ダイニング用の6人掛けのテーブルと、リビング用の小さなテーブル。テレビはダイニング側からも、リビングのソファーからも見られる。家族全員が同じテレビ番組を見る。しかし、中にはダイニングテーブルでパソコンをする子どももいる。テーブルに化粧道具や鏡を持ってきて化粧をしている。ソファーで新聞や雑誌を読んでいる子どももいる。お風呂に入ったり、自分の部屋に行ったり、防音室にピアノの練習に行ったりと、出入りは激しい。けれど、家族みんなの共有できる空間であり、たとえそこに全員が揃わなくても、誰もみんながそこにいる感覚になっている。
しかし、不便なことも多い。特にテレビ。それぞれに見たい番組を自由に、好き勝手に見られるわけではない。たとえば、遅い食事をとっている時などは、子どもたちにチャンネル権があったりして、見たくない番組でも見なくてはならない時もある。空間にしたって、暑いという者もあれば、寒いという者もあって、どちらかが歩み寄らなくてはならない。決して一人静かに過ごす場所とはならない。
子どもたちが大きくなると、それぞれに自己主張をしだすので、結構我慢させられることも多い。テレビのチャンネル権はもちろんそうだが、会話ひとつとっても意見や見解の相違が出て来て、今では昔のように力ずくで私の主張を押し通すことはできず、逆に言い負かされて、ぐっと気持ちを抑えることもしばしばである。
一人でいるととても気楽だ。すべては意のままにおこなえる。誰も文句を言ったり、反対するわけでもない。何もかも自由だ。そして、何もかも自分の“考えの中”なのだ。そう、今までの自分の域からは出ないのである。出られないのである。意のままイコール進歩が無いことなのだ。ある意味、裸の王様状態である。
ところが、リビングダイニングは違う。みんなが集まる。みんなの意見が交じり合う。もちろん軋轢が生じることも多い。しかし、だからこそ新しい刺激があり、新しい発見があり、新しい考えが生まれるのだ。
テレビを例にとって見よう。私一人なら、まずニュースを見る。今日一日の出来事が、いつものパターンで繰り広げられていく。ニュースだから毎日違っているようだけれど、中味は意外と同質だ。政党間の攻防、凶悪犯罪が発生したとか、経済が悪化しくらしが大変である、国際情勢が不安定だ、交通事故が絶えない、さらには天気予報にスポーツと、いつも同じ内容といっていい。次に見るのはスポーツ番組。これも同じだ。ストーリー展開が予測できないところがあるので、ドキドキして面白いだけで、内容的には、誰かが勝って、誰かが負けて、お仕舞い。とてもではないけれど、今流行の月9のようなトレンディドラマを見ることはない。いわんやJポップなど全く知ることもないだろう。
ファッションも然りで、彼女や彼たちが毎日どんなふうにして服を選んでいるのか、分かりはしないだろう。携帯電話をどう使いこなしているのかも分かる。eメールはもちろん行先案内(電車の時刻表)に使ったり、音楽を聴いたりして、ほとんど通話には使っていないことなど。いつも傍にいるからこそ実感して分かるのであり、必ずしも直接のコミュニケーションを通してのみ分かることばかりではないのである。知らず知らずのうちに、私の意思や行動のみでは得られない情報を与えてくれているのである。彼女や彼らにしても同じである。若者の知識だけでは得られない大人の経験や知恵も学んでいることだろう。
狭い家、1台しかないテレビ、リビングダイニングに万歳!

