バカを演じられることが一番幸せなのかなぁ

幸せになるために

【1998年11月記載】

私は縁起をかつぐ方なのかもしれない。朝起きて、まず息子と一緒にテレビの“今日の運勢”を見る。7時前後の時間帯には、この類の番組を各テレビ局とも放映していて、私は出来うる限りの番組を見るようにして、その日1日の幸運を願う。出勤に際しては、3人の子どもたちと堅い握手を交わしてから出かける。握手しないと不安になるから。

電車に乗っている時は、立ったまま車窓から外の景色を眺めるのだが、自ずと自動車に目が行ってしまう。いつからかこの自動車で、自分なりの今日の運勢を占うようになってしまった。また、電車から降りて、会社へ向かって歩いている時も、やはり自動車で占いをしてしまう。自動車の数や色、車種それにナンバープレートなどで、勝手に良い悪いをつけてしまっている。

もちろん一般的に言われている大安仏滅、十三日の金曜日、茶柱が立った立たない、北枕、夜爪を切らない、櫛は拾わない等々はやっぱり気になってしまう。自己占いの結果はどうかというと、ほとんど当たってはいないのだが、どうしてもこの状態から抜けきれない。ちょっとばかり自分でも自分が頼りなく感じてはいるのだが、そんな中で、最近こんなことがあった。

先日のこと、この日はあいにく仏滅。出勤時からいつもの自己占いはあまり良くない。少しいやな気分だったのだが、出社してしばらくするといつのまにか忘れていた。午前中は掃除機事業部のK室長と、業務用生ゴミ処理機の打ち合わせをした。事業部からの要請を受けて、来年度商品化をめざして共同開発をしてきたのだが、ここに来てどうも事業部の商品戦略が不透明になってきていた。要注意だとは思っていたのだが、思いがけずこの場で商品化計画を断念するとの意向を聞かされてしまった。とても急なことで、しかも力を入れてきただけに、残念で仕方がなかった。主担当者のN主席技師などは、大きなショックを隠しきれないようであった。悪い時には悪いことが重なるもので、昼からの所長ヒアリングでは時間の調整がつかず、我が研究室のテーマは短時間での説明を余儀なくされてしまい、中途半端な終わり方をしてしまった。所長もおそらく不満足であったろうと察せられた。

極めつけは、この日は教員をしている弟の誕生日ということで、島根の実家の方へ電話したのだが、これがいけなかった。自分の誕生日に電話をもらったということでうれしいのだろうが、如何せん、この日教頭試験の結果発表があったらしく、父より彼が試験に落ちたということを聞いたのだ。さらに悪いことに、脳内出血のために体の自由のきかない母が、ころんで頭を打ったようで、病院での検査におおわらわだったらしい。何とも運のよくない1日であった。

まだこのレベルであれば、致命的な不幸ではないので、当事者にとって多少の諦めや納得する気持ちもあり、後々尾を引くことはない。この類の話は少しその不幸を誇張して話すと、とても面白い話になるはずで、聞く人にとってはとても耳に心地よい話となる。まさに他人の不幸は蜜の味である。

しかしこれがその逆で、他人の自慢話などはとても聞くに耐えられない。とても耳障りなのである。特にとても真似できそうにもないことを得意そうに言われると、相槌は打ちながらも心の底では“こんチクショー”と叫びたくなる。特に、自分の家柄、血筋、家族や親族に関する自慢話はもってのほかである。なにしろ話をしている当人の力量とは全く関係ないのだから、それをあたかも自分の力であるといわんばかりのこういう話には、耳を塞ぎたくなるのが人情だ。同じレベルの人間同士ならなおのこと、こういう話を持ち出すと人間関係はギクシャクしてくる。

幸せは相対値だ。世の中に自分より不幸せな人がいてこそ、人は自分の幸せを感じるのだし、周囲がみんな幸せそうであれば、途端に不幸せになってしまう。人間誰しも心の何処かで、自分は平均より上だと思っている。あるいは何処かで人並み以上のものを自分に見つけて生きている。さもなければ不幸を感じてばかりでおかしくなってしまう。

心の中では人並み以上に思っていても、表面では何処かで人より劣っている印象を出すことができれば、自分も周囲の人々もみんなが幸せになれるに違いない。