思ってもみなかった人たちに私は支えられいる...そんな気持ちになった

お見舞い

【1995年5月記載】

  漠然とお見舞いというものは、しても、されても義理的な意味あいが強く、有難迷惑なものではないかと思っていた。二十数年前に自然気胸で2ヶ月入院したことがあったが、その時は田舎から遠く離れて東京でたった一人だったこともあり、ほとんどお見舞いに来てもらうという体験をしたことがなかったので、ことさらお見舞いというのがどの様なものであるか分からなかったし、考えもしなかった。

  病気とか災害といったものに対して、お見舞いをするとか、お見舞いに行くといったことは何度かあった。しかし、それにしても特に無理をしてとか、特別時間を割いて是非ともしてあげなくては..といった類のものではなく、結構軽い気持ちで、される側のことなどほとんど考えてみたことはなかった。いい加減だった。

  顎下腺の手術にあたっては、私自身当初それほどの事もないと思っていたし、病院が京都でもあり、遠く離れているところから、極力お見舞いはしてもらわない様にと考えていた。誰も来ない方がいいに決まっている。手術した後はだらしない姿になっているに違いない。当然風呂には入れないので、体は汚く、髪もボサボサ、場合によってはよだれまみれになっているかも知れない。そんな処へお客さんに来られてはゆっくり養生も出来ないではないか..。病気になってまで気を使うなんて真平御免だ。一人でこの際じっくり休みたい。第一暇な時間なんてあろうはずがない。読みたい本も山のようにあるし、書きたいエッセイも少しはある。自由な時間が持てるなら、もっと考えたい仕事も沢山ある。せっかくの機会だから是非一人にしておいて欲しいものだ、と。

  ところがである、手術して3日めからもう見舞い客だ。ようやく尿の管や血抜き用の管がとれて少し動けそうかなという時にである。

  もう少し後だと有難かったのだけれど..と思いながらも、意外と来てもらうと嬉しいものなのには少なからず驚いた。ついつい浮かれておしゃべりになってしまう。これまでの不安だった気持ちやこれから快方へ向かうであろう病状の事など..。結構心が和んだし、少しさっぱりした気分だった。それから約一週間、毎日一人か二人訪ねて来てくれたけど、同じように大変嬉しかったし、楽しかった。やっぱり来てもらった方が良かったのだ。特に退院が近づくにつれて、体の調子が良くなり暇を持て余す一方だし、入院生活にも飽きて来るので、「今日はいったい誰がきてくれるのか」と、大変楽しみになって来た。

  意外に思ったのがお見舞いにきてくれる人。親戚関係は抜きにして、直属の上司や部下が来てくれるのは仕事の関係もあって別段不思議でもないが、直接このラインに乗っていない人が来てくれるのには驚いた。上司や部下に来てもらうのにも感激したのだが、予想外の人のお見舞いには感じるところが多く、今までの私の考えや行動を痛く反省せざるを得なかった。

  例えば、昔一緒に仕事をやっていた仲間やその時の上司、あまり目だたないコツコツタイプの研究者たちである。どちらかというと私の性格とは合わない方だ。それゆえ日頃は、無視しないまでも軽く考え対処していた様なところがあった。

  また、これまでに何度か喧嘩をした人とか、所長の方針と合わずに冷飯を食らわされている人とか、いずれも今は特に研究所をリードする様な仕事について活躍しているという人ではない。

  そんな人たちがわざわざお見舞いにきてくれたのである。いつも周りの人たちに気を使い、自分で出来ることは精一杯頑張ってやるタイプなのだろう。それなのに私といったら、そんな人には無関心で、やたらと表立った発言やアクションをする人(私の性格によく合う人)にのみ目が行っていた。普段調子のいい人に限って、こんな時には薄情なものなのかも知れない。

  好き嫌いで人を判断してはいけない。