スポーツは、現実を直視する能力を私たちから奪っている

スポーツは誰のために、何故勝ち負けを競うのか

【2023年5月記載】

ガンバ大阪がまた負けた。新監督を迎え、大型補強を行い、新たなシーズンに入ったのだが、これまで12試合を終えてわずか1勝しかあげられず、ここ5試合は4敗1分けと全く勝てていない。ガンバのサポーターとしてはフラストレーションが溜まる一方で、応援するのはもちろん試合そのものを観戦する気にもならなくなってきた。あと半月もすれば、遠く新潟まで応援をしに行く予定になっているのだが、気分も少し重くなって楽しい旅にはならない気もしてきた。わざわざお金と時間をかけて、先日の亀岡での京都戦と同様に負け試合を見せられてしまったのではつまらない。

勝っているうちはいいのだけれど、負けてしまっては腹が立つ。とても残念で悔しい思いが募ってしまう。負けるのを見るのは辛い。できることなら見たくない。しかし、勝つのではないかと淡い期待を持ってついつい見てしまう。勝ってスキッとした気分を味わいたい。アドレナリンが出て、ハイな状態になりたいと思う。勝てばとても気持ちがいい。そういう状態をイメージしながら観戦する。勝つと負けるとでは大違い。

幼い頃から遊びや運動で勝ち負けを競ってきた。勝ったり負けたりすることで、喜んだり悔しがったりしてきたし、その類のスポーツやゲームを観て楽しんできた。元々、私たちは好戦的であり、戦うことの代わりにスポーツでそのような悲惨な面を避けてきているのであろうか。凄惨な側面を打ち消してきたのだろうか。

スポーツなんて、庶民の欲求不満を解消させるだけで、何の生産性もないし、何の価値も生み出さないと言えるかもしれない。もし、庶民のストレス発散が主目的であるとしたら、こんなものは要らないし、スポーツの存在意義が問われることになる。そもそもなんで戦わなくてはいけないのか。何故勝ち負けが必要なのか。どうして記録にこだわるのか。それをみんなが求めているから…?。

ガンバ大阪が勝ち続けてリーグ優勝すると、とても嬉しい。Jリーグの頂点に立つと、なんだか私までが誇らしくなり、ウキウキしてしまう。逆に負け続け、下位に甘んじてしまうと、とても情けなく思ってしまうし、J2に降格でもしてしまうと一気に落胆し、ガンバを恥に思ってしまうかもしれない。

スポーツは自分でやるにしても、観戦するにしても、勝ち負けに拘らずにいられることはできないのか。

先般行われたWBC(World Baseball Classic)では日本が優勝したのだか、この時は誰もが日本の勝利に向けて熱烈な応援をしていたし、マスコミもそれを煽るかのように連日報道していた。そして、日本が勝つたびに、人々は狂喜し浮かれまわっていた。庶民のストレス発散にとても貢献しているのが、はっきりと感じられた。

人々のストレスを解消させるには、スポーツが一番効果が高い。そして、何ら悪影響(副作用)を与えないのだから、為政者にとってはこれほど都合の良いものはない。今でも毎日のようにMLB大谷の動向が報じられ、海外における日本人アスリートたち(サッカー、ゴルフ、テニス等)の活躍ぶりがマスコミやネット上で持ち上げられている。私たちはこれを見ては満足し、何とはなしに幸せな気持ちになってしまう。

スポーツって一体何のためにやるの? 勝ち負けにどうして拘るの? 何故、私たちはこれらに反応し、期待し、満足してしまうのか。スポーツが無かったら、マスコミは何を報道するのだろうか。特に良い話題はスポーツ以外にはネタが少ない。スポーツが無ければ、現実の報道内容はとてもシビアで深刻なものに偏ってしまう。特に、政治関連の話は批判的なものに終始してしまいそうで、人々のストレスは溜まる一方だろう。

スポーツは庶民からの為政者への批判をそらせるためのツールなのか。アスリートたちはうまく利用されているということなのか。スポーツに夢中になることは、ある意味現実から目を背けることになり、決していいことではないようだ。