ドラマは勧善懲悪が分かり易くてスキッとするけど、本当に悪い人っていないよね

良い人、悪い人

【1994年7月記載】

  この頃、夜子供たちを寝かしつけるのに、母親に代わって本を読んで聞かせることが多くなった。しかし簡単な絵本ではなかなか満足しなくなってきているので、ちょっとしたお話を読んでやることになるのだが、その中で"田村麻呂"というお話を読んで聞かせてやったときのことである。

  「むかし坂上田村麻呂という大変強くて心の優しい立派な大将がいて、都から遠くはなれた奥州でよい人たちに乱暴をしていた悪路王という悪い人を、仏様の助けを借りて退治しました」という表現が使われていて、思わず考え込んでしまった。ほんとに田村麻呂が良い人で悪路王が悪い人と決めちゃっていいのだろうか。むしろ田村麻呂が侵略者であって、悪路王はそのために滅ぼされたかわいそうな人ではなかったのか。

  何がよい人で何が悪い人なのか。人の評価は見方、立場によって180度変わってしまうことがある。先日、Kさんと飲む機会があった。Kさんには随分と前からお世話になっていて、最近では彼の担当する開発プロジェクトが商品化になるということで、プロジェクト管理面で事業部への引継やメンバーのシフトという点でも話をしたいと思っていた。こういう時は仕事の話を中心に世間話をしていくうちに、酔いに任せて自然と愚痴っぽくなるのが人というものであるが、この日はそんなことも余りなく楽しく酒を飲むことができた。ただ人の見方というものは随分と違うものだということが、この時すごくよく分かった。

  当研究所のある人物Aさんについての評価が私とは180度全く違うのに驚いてしまったのである。話を聞いているうちにほんとに何が良くて何が悪いか分からなくなってしまった。私はいままでこのAさんがいるから当研究所はその価値が発揮できているし、これからもAさんの考えを発展させていけばきっと素晴らしい事業が生まれてくるし、開発力もついてくると思っていた。またその人柄というか、個性には独特のものがあり、その発想力や独創性には学ぶ点が大いにあり、凄い人物だと考えていたし、尊敬もしていた。ところがである、Kさん曰く、このAさんが最大の癌ともいうべき存在であり、こういう人が楽をしてヌクヌクと居座っているから、研究所の風土も今一つ良くならないのだ....と。なるほどそうかも知れない。確かに、Aさんは人の好き嫌いが激しく、ものの言い方はひどくぶっきらぼうであり、人の嫌がるようなことや気にしていることを平気で言ってしまう。若い人からみたら近寄り難く煙たい存在であり、年配の人からみたら一人好き勝手なことを言い自分は楽をしている様な感じを受けるに違いない。

  しかしこうも人の評価が違うのは何故だろう。少なくとも私の周りの人たちに対しては、客観的に良い人/悪い人という区分けは出来ないように思えてきた。

  Bさんはいつも派手なTシャツを着てノッソノッソと社内を歩いているし、ヒアリングなんかでも、話したくないんだと言わんばかりにぶっきらぼうな受け答えをする。ちょっとした質問を投げかけてみても、「それはそんなものだ」「今の会社では何も出来やしない」といったネガティブな意見しか出てこない。だからついつい、こいつは相当なあかんたれやな、あまり役に立つ人間ではないな、という印象を持ってしまっていた。ところが、最近帰りが一緒になったり、飲んだりする機会があって、少しじっくり互いの思いや考え方なりを話すことができた。するとどうだろう、今までの悪い印象が忽ちのうちに消え失せ、好印象になってしまったのだ。もちろん彼の潜在的な資質が良いということもあると思うが、彼に関する情報がたくさん入っただけで今までのイメージが大きく変わってしまったのである。  全く知らない人に対しては、こういった良し悪しの判断は出来ないが、少し知っているとか、何回か言葉を交わしたとか、直接一緒に仕事をしたことがあるとか、人との接し方のレベルがその人に対する評価にかなりの影響を与えていると考える。利害関係が伴わない状態で、一緒に仕事をしたり話をしている場合は、概ね評価は良くなるであろうし、一緒に仕事をしていなくても一度なりとも深く突っ込んで話をし、お互いを認識できるレベルに達すると、その人が"わかる"ことになり、決して悪い印象を持つことはない。特に共通の話題や趣味があれば、もうこれは良い人ということになってしまうであろう。したがって、あまり良く知らずに第一印象的な感覚しか抱けないような人に対しては、概ね良い印象は持たれないと考えられるし、事実その人がおとなしい人であれば暗いイメージを覚えるし、活発な人であればでしゃばり的なイメージで捉えてしまう。その人の認識度によって、随分と評価は異なり、できるだけ互いに良く知り合うことが"良い人"になる最良の手段であるように思う。

  一方、良いことをしていても悪く捉えられてしまう。良いことをしようと思っていても、言葉足らずで悪い結果になってしまう。この様なことが起きるのはどうしてだろう。それは人の良し悪しではなく、能力の有り無しに起因するのではなかろうか。

  Cさんは大変まじめなのではあるが、如何せん客観的にみて誰もがその頭の硬さ、理解力の見劣りは否定できないという人である。しかし最近研究所の体制が変わったこともあり、ここ半年間一人でプロジェクトを推進することとなった。所謂PLという立場になってしまったのであるが、そのプロジェクトの推進の仕方はひどく、ヒアリングを実施してみてもその内容はあまりにもお粗末であり、これでは関連事業部からクレームがつくのは当り前という悲惨な状態であった。にもかかわらず、本人には充分そのことが理解できないらしく、かえって上司やスタッフに関する愚痴をまき散らすばかりで、いよいよもって周囲に悪い印象を与えてしまっている。

  賢い人というのは、日常の業務レベルでは、多少なりとも悪い方に事が運んでいるのを指をくわえて見ているということはなく、そうでない人の場合に悪い現象が多く見られる。自分の能力以上の仕事を任された時、思考能力や判断能力がプッツンしてしまい、もの事がうまく運ばなくなり、結果的に"悪い人"になってしまうのではなかろうか。悪い人をつくってしまった人が必ずいるはずである。

  会社の仕事ではこの様な意味での悪い人を決してつくらない様に、上司も先輩もスタッフも責任を持つべきであり、心せねばならない。一人の悪い人をつくってスケープゴートにするのは、みんなの不満のはけ口になるかも知れないが、その様な風土の中では決して人は育たないし、良い仕事もできないはずである。

  悪い人は、みんなの責任だ。