庶民にとって自動車は消費財のはず...必要以上に大切にしてもね

形のあるもの、形のないもの

【 2000年11月記載】

 9月から11月にかけては研修や行事などで出勤もしくはそれに近い状態で会社に出ることが多く、なかなか休日といえども家でゆっくり過ごすことが出来ない。そんな数少ない休みのある日のこと、久しぶりに家族で買い物に出かけることになった。何気なく運転席に乗り込んだのだが、助手席に乗ろうとした妻が急に叫んだ。
「えっー、何これ!こんなに傷ついちゃって、誰かがいたずらをしたんじゃない…」
何事かと思って助手席のドアを見てみると、なるほど何か硬いもので表面を擦ったような痕が50cm程度波状についているではないか。
「まぁ、仕方がないじゃあないか。傷ついてしまったものは…」
と言ってみたものの、少しがっかりしてしまった。まだまだ綺麗に使っていたので、醜い傷はつけたくないのが心情だ。

しかし、これがピカピカの新車だったとしたらどうだろう。とてつもなく高価な、身分不相応なベンツやジャガーだったとしたらどう感じただろう。こんなものでは済まないはずだ。大事に大事に扱って、いつも車を磨いたり車内を掃除したり、ちょっとでも傷がつこうものならそれこそ一大事。物を大切にすることはいいけれど、そのものの本来の機能を大切に使うこと以外で、大切に扱うのはどうかと考えさせられる。必要以上に高価なもの、必要でもない機能をつけてそちらの方に価値のウェイトが移ったもの、これらに価値を見出して大切にし過ぎてしまうとどうなるだろう。価値が、その物が持つ本来の機能以上のものになってしまった物に対して、私たちはそれを大切にするあまり、必要以上に気を使ったり時間を費やしたり金を使ったりしてはいないだろうか。

 形のあるものは、絶対に形が壊れてしまうものなのに、大切であるがゆえにそれを守ろうとする意識が働きすぎて、かえって私たちの意識なり行動に制約をかけてはいないだろうか。形を守ろうとすることがかえって私たちの自由を束縛し、知らず知らずのうちに保守的な行動をとらせるようになるのではなかろうか。

 形あるものを大切にしようとしてはいけない。形あるものはそれを手に入れた瞬間に、心の中では捨ててしまわないといけない。それを造り得た時点で、壊すことを考えなくてはいけない。形あるものを見ること、考えること、創造していくこと、使っていくことに価値を見出すことこそが本当に大切なんではないだろうか。そこに喜びを見つけていくことが、“生きる”ことを満喫することではないだろうか。形そのものに価値を置くのではなく、形からでてくるものに価値を見出すことによって人は、より広く考え、より広範囲に行動することができるのだ。そうすることの出来る人が、よりよい人生を送ることができるのではなかろうか。