情報社会における情報収集とは...自分とは違う視点を持った人と接することかな
腱鞘炎になって感じたこと
【2017年10月記載】
はじめは右手首の痛みがひどく、左手首の痛みはそれほどでもなかった。手首の痛みを感じはじめたのが8月の上旬。ちょうど朱雀の夏祭りの準備で、二丁目自治会のテント設営をした時、歪んでいた支柱の金具を強引に直そうとして、むりやり力を入れたため、痛めたものと思っていた。実際に、その影響があって、しばらくは痛かったのだろう。
しかし、この手首の痛みはその後ずうっと続いた。はじめは右手首が痛かったのだが、そのうち左手首も同様の痛みを感じるようになった。
これはいけない。できるだけ動かさないようにして、手首に負担をかけないようにしなくてはいけない。そう思い、湿布を貼った。病院に行くことは全く考えていなかったし、そんな余裕も無かった。しかし、9月に入っても両手首の痛みは治まらなかった。むしろひどくなったように思えた。手首はできるだけ使わないようにした。ただし、仕事はしなくてはいけない。仕事はほとんどが事務作業であり、パソコンでのキーボード操作である。手首の痛いのには少しまいったけれど、何とか仕事はできた。
10月になると右手首の痛みが無くなった。全く無くなった。あれほど痛かったのに全くと言っていいほど痛みが無い。それと同じくして、左手首の痛みがとてもひどくなり、少し手首をひねっただけで、すごい痛みが走る。湿布も効かない。どうしてだろう? 病院へ行かなければならないかも...。
そんな時、妻が新聞記事を教えてくれた。
手の腱鞘炎は、指を激しく使う人に多く、なりやすいタイプとしては、肘や手首の動きが少なく、指だけを激しく動かしている人だという。この動きは本来の手の動きではなく、手首と肘の本来の動きを取り戻し、腱の負担を軽くする体操を紹介するという農業新聞に掲載されていた記事であった。
これが意外にも的を得たものであったようで、この記事内容に従って手首の体操をしてみると、左手首の痛みもずいぶんと和らいできた。いつもパソコンに向かって、指先だけを動かしていたので、その記事の内容には全く持って納得がいく。彼女の情報提供に感謝である。とても私ひとりでは気付かなかった情報を与えてくれたのだから。
自分で手に入れる情報には限界がある。確かに、今の世の中に溢れ出ている情報はとてつもなく多いし、アクセスしようと思えば、たいていの情報は入手できる。しかし、その多くは自分で求めていくもので、自分の関心のないものは入ってこない。聞きたい事だけが聞こえてくる。求めたいものだけが入ってくる。特に今は、インターネットの時代であり、私たちの行動はある程度予測されている。パソコンで探す情報は、その人の好みに合わせて、事前に選別されている場合が多い。ネット配信で見るニュースは、見る人の嗜好にカスタマイズされている。スポーツ好きならスポーツ優先で、それもサッカーならば、サッカーのすべての情報が入ってくる。芸能なら芸能優先だし、音楽が好みなら音楽から先に情報が入ってくる。人の好みに応じてカスタマイズされているから、自ずと小難しい内容のものよりも、大衆受けする情報の入ってくる頻度が高くなる。カスタマイズされた情報が入ってくるようになると、人はますますその傾向に拍車がかかる。そしてその道のオタクになる...。難しい経済や政治、思想的なものさらには科学技術的なものに、アクセスすることはほとんど無い。
極端な事を言えば、カスタマイズによって、人々はどんどん限られた情報のみに傾注し、バランス感覚が無くなっていく。結果として、知らなければならない情報に接することは無く、知らなくても良い情報にばかり接してしまう。偏った人種が増えていくことになりかねない。
情報はバランスよく入手しなくてはいけない。その点で、新聞から得られる情報というのは、とても効果があると言ってもよいのではないか。常にいろいろなジャンルの情報を与えてくれるし、毎日定期的に提供してくれる。溜まった新聞から、過去に遡って見直すことも容易だ。一般紙だけでなく、農業新聞のように、業界紙も一緒に見ると、より違った角度から情報を手に入れることができる。
ある意味、今の時代、個人に入ってくる情報はとても偏ったものになっているのではなかろうか。情報社会と言いながらも、私たちは情報の種類や内容に鈍感になっているのではなかろうか。


