モノからコトへ...価値の変遷がさけばれて久しい。日本は観光とアニメでしか具現化できていない。だから失われた30年
感動の記念にはお金を払う
【2002年5月記載】
C席は2階席の一番奥にあった。にもかかわらず私たちは完全に「キャッツ」の世界に入り込んでいた。その躍動感溢れる踊りと美しい歌声に魅了されてしまった。舞台に次から次へと現れてくる個性的な猫たちに目をくぎ付けにさせられたまま、あっという間に3時間が経ってしまった。久しぶりにすごい感動を味わうことができた。この感動を自分の心と体の中に焼き付けたい思いが一杯になってくる。この感動の大きさを誰かに伝えたい衝動に駆られてくる。妻も長女も同じような気持ちだったのだろう。2人でキャッツのパンフレットを買いに行ってサインをしてもらってきた。パンフレットを広げて、今日上演された内容とスタッフを確認しては再び感動を味わいかえしている。帰路についても劇場の周りで思い出となるような記念の写真を何枚か撮った。長男や次男まで劇場の遠景を背にして写真を撮った。家族全員とっても満足し、「また是非もう一度見たい」そんな気持ちになったのだった。
こういう感動が人生に幾度あったなら、本当に良い人生を過ごした事になるのだろうか。感動したことをいつまでも心の中にとどめておきたい。いつまでもその余韻に浸っていたい。そういう願いからか、私たちは感動を共有できそうな友人や家族と共にそれを求めに出かけ、思い出となる品物を買ったり、記念の写真を撮ったりする。感動する喜びを味わうことにより、私たちは生きていることを実感しているのであり、それに対してはお金を使うことを惜しまない。感動を求めてできる限りのお金は使うのである。人々は感動を求めて行動し、その感動の記念を何らかの形で残そうとする。このゴールデンウィークは例年になく各行楽地は多くの人で賑わった様である。不況下でも、人々は心を動かされるような何かを求めてうごめいている。それが人間というものなのだろう。
ところで私たちの作っている家電製品はどうだろうか。高度成長期にあれほどあこがれ、それを手に入れることによって大きな喜びを得ていたものが、すでにその魅力を失い、「どうしても欲しい」ものではなくなり、「いかに安く手に入れることができるか」といった生活日常品に近い感覚で求められるようなレベルにまで低下し、今や低価格の中国製品に席巻されているようになってしまった。消費者にとってはとても良いことなのだが、魅力的なものという観点ではすでに商品価値をなくしてしまったと言える。
感動を与えるような家電商品の開発に向けて、基本性能はもちろんのこと、デザイン、耐久性、操作性等を消費者が満足を覚えるようなものに仕上げていくことが大切であるが、一方で、買った時や使った時の感動をいつまでも持続していける特徴付けも要るのではなかろうか。ちょうど記念写真やパンフレットを見てはときどき感動を呼び覚ますようなものが。もう、日用雑貨に感動はないのだろうか。

