31年前の中国は、トイレを探すのにも苦労したなぁ...

上海出張 その1

【1994年9月記載】

  • 関西新空港が9月4日にオープンした。海の中に生まれた24時間空港として関西の期待を一身に集めてのスタートである。しかしその一方で今まで西日本の玄関であった大阪国際空港の伊丹はすっかりその影が薄れてしまうことになった。それに追い打ちを掛けるかのごとく9月7日の未明よりかつてない集中豪雨がこの伊丹を襲った。遠く奈良からも大阪の空が雷鳴で薄明るく光っているのが見えたくらいであり、この影響をまともに受けて伊丹空港の神経系は完全に麻痺してしまった。

これこそ"泣きっ面に蜂"である。      It never rains but it pours.

  これには私も大変困ってしまった。まさに前途多難を思わせる出来事であった。この9月8日より4日間、技術部会として中国は上海を視察することになっており、私は事務局として一切合切を任せられていたし、そのための準備も滞りなく済ませていたつもりだった。あいにくこの9月8日は木曜日にあたり、関西新空港からの上海直通便がない日であり、一旦伊丹より福岡へ飛んでそこから上海に向かうことになっていたので、この伊丹空港の閉鎖には本当に参ってしまった。伊丹がいつになったら通常状態に戻るのか分からないので、止むを得ず福岡まで朝一番の新幹線で発つことにした。

  この日から私の眠られぬ日々が始まることになったのである。

9月8日は朝の5時にタクシーで出発。研究所長と一緒に行くので少しでも寝過ごすわけにはいかない。だからどうしても目覚し時計が気になって仕方がない。また中国に行けるということで興奮しているものだから、一度眠りから醒めるともう寝つかれない。なにか行事のある時はいつもこうなのだから全く自分が情けない。

そして上海1日目は、合弁先の企業が大歓迎をしてくれたので、もうすっかり良い気分になってしまった。ホテルに帰りいつの間にか眠ってしまっていて、エアコンの寒さで夜中に目が覚めた。しかし明日からの少し曖昧な点の残るスケジュールを思うと心配でそれっきり眠れなくなってしまった。

2日目は新工業団地や日系メーカーを見学した後技術部会のメンバーのみで上海の街に繰り出した。わけの分からないまま、とある中華料理店に入ったのだが、日本語が通じない。たまたま大学一年の王さんという可愛らしい娘さんが片言の日本語でサービスしてくれたので一同大変な盛り上がりを見せた。こういう時にこそ心から技術部長さんたちはお互いに打ち解けて話せるようで、皆さんグッーと身近に感じられたのではないだろうか。ともあれ、あまりにも色々なものを調子に乗って注文し、食べ過ぎたので、今度は夜中にお腹が痛くなりトイレに走らなければならない羽目になってしまい散々....。おまけにN部長の"鍛通の悩み"を夜遅く迄聞いていたこともあって完全に寝不足。

3日目も共栄会社さんからの接待があり、夜遅く迄眠い目を擦りながら飲んだり食べたり..。あまりにも中国の印象が強く残ってしまいいよいよ眠れない。

4日目は帰国するだけ、ところがどっこい!次の日は月曜日にあたり恒例の役員会が催される。・・・・私は何のために中国に行かせて貰ったのか。事務局は何をすべきなのか..。考えてみればすぐに分かる。そう、役員会での朝一番の報告は絶対だ、これをやらなきゃあ意味がない。帰国早々レポート作成にとりかかった。しかし旅の疲れで一向に進まない。頭の中が一杯なのだけれどもボーッとしてまとめる思考力が働かない。取り合えず仮眠を取ったら少し元気になりその勢いで書き上げた。とても嬉しかった。時間がいつもよりはかかりすぎ、結局この日も充分睡眠を取ることはできなかったけれど、流石に良くやったと自分で自分を褒めてやりたくなった。しんどい時に、誰が見ても出来そうにもない時に、それをやってしまうことに価値がある、そう思って頑張った。自分の役目を考えれば、何故連れて行って貰えたのかを考えれば、当然しなければならない事なのだが..。案の定この報告書は大ヒットだった。よく頑張ったと充実感で一杯になった。

  上海出張の眠れぬ五つの夜は本当に辛かったけれど、いい思い出となったし、少し自信のついた旅でもあった。