30年前、発明はとても価値の高い、憧れの対象であった

発明表彰で貰ったもの

【1994年4月記載】

  わが家のサイドボードの中には、その中に入るにはちょっと不釣合いな大きな楯が"燦然"と輝いている。去年の秋、近畿発明表彰で貰った生まれて初めての唯一の楯である。丁度いつも私が就く食卓の前に位置しているものだから、嫌でも目に触れてしまう。そしていつもそれを目にしては、ちょっとばかり嬉しくなってしまうのである。あまりにも、いつも見ては嬉しそうにするものだから、「本当に、生まれて初めて表彰して貰ったのね」と妻が感心し、半ば呆れて言ったことがある。実のところ私にも不思議に思えてならないのであるが、自分自身今までは表彰状とか、トロフィーとかそんなものを嬉しそうに大事にする奴は尊敬にあたいしない、そんな人間にだけは成りたくないものだと思っていたのに、現実の自分を見るにつけ大変がっかりしたというか、なんて浅薄な人間なんだろうと、無性に自分がちっぽけに思えて残念で仕方がなかった。長女なんてトロフィーを貰った後は、完全にその存在を忘れているのに....。

  何故こんなことでニタニタしてしまうのか。あまりにも今までそういう晴れがましいことに縁がなさすぎたため、そのことに対する免疫がなく、その快感に酔ってしまい、もう自制心が効かなくなってしまったのではないか。お金、権力、地位の次に来る欲望の一種である名誉欲と言うものなのかも知れない。....あまり良いものではない。ただ、表彰をして貰ったという成功体験を活かす事が出来て、これをエネルギーとして次の目標に向かって新たなスタートを切ることの出来る人はいいと思う。過去の体験を単なる自慢話に終わらせる事なく、過去の栄光にすがって負の遺産としてただ蓄積するだけでなかったのならば....。

  表彰でも安っぽいのは駄目だ。簡単に貰えそうなものは有難く感じない。楯でもトロフィーでも重量感のあるものを貰うと完全にまいってしまう。やはりそれなりの権威があると人は圧倒されてしまう。人は権威とか名誉には弱いものだと思う。ところで、中学生の頃、自治会の役員の推薦により公園の清掃活動をしたということで、代表として市から表彰をして貰ったことがあるが、実際には清掃はたったの1回しただけだったので嬉しくも有難くもなかった。ただ恥ずかしかったのを思い出す。一般に言うところの権威とか名誉というものは、やはりそれだけの力がないと手に入れることは出来ないから、自ずとその人の努力した結果でもって、発揮した能力のレベルが高ければ高いほど権威がつくし、それを手中に収める人も自己の努力が並み大抵ではないはずだから、達成感は高いはずである。だからこそ、それに参ってしまうのだ。

  でも参ってしまったら、人間それで終わってしまう。もう一度オールクリアにして、エントロピーをゼロにして、新しい人生を始めるだけの勇気がなくてはいけない。それだけの若さを持っていなくてはいけない。そうしないと成長は止まってしまう。  ....そう思う。  今の私はちょっとポケーとしている、安心している、ゆっくりし過ぎている....。その表彰を含めて、ここしばらくの自分のやってきた事への自己満足に浸っているのかも知れない。今までの事を活力にして、それを越えるものを勝ち取る努力を始めなければならない時期に来ているのだろう。今までよりも上を目指して、より高い満足を得るためにも、過去は捨て去ろう....。

  やっぱり表彰物を飾っておくのは良くない。すぐさま撤去してしまおう。もう押入の中に仕舞い込んでしまおう。私のこれからの人生の為にも....。人間なんて結局何も持たない人ほど大きく成れるのかも知れない。自分のやって来た事にこだわったり、一度手に入れたものに固執したりしていると、人は成長しなくなる。若い人ほど将来に可能性があるというのは、若い人ほど何も持っていないからだと思う。何もこだわるものが無いからだと思う。

  何もなくて生きていけるだけの強い心を、持てる様になりたい。
  何かを持っていてもそれを捨て去るだけの自信が、持てる様になりたい。

さようなら、「発明表彰」。