映像の伝える力はどれだけあるのだろうか
高校駅伝
【2003年11月記載】
陸上部に入って長距離を始めた第一の目標が、高校駅伝であったようだ。今のレベルなら何とか7人の出場枠に入れそうだと感じたのであろう。長男の高校駅伝に対する取り組みは、とても計画的で、しかも自分というものをよく知っているのだろう、ここ数ヶ月は駅伝の最短区間3kmを想定したトレーニングをしていた。その努力が実って、高校駅伝の県大会に出場することになった。
彼の通っている高校は、昨年ブービーに終わり、今年もそう良い成績を期待されているわけでもないので、気分的には楽に走れそうだ。しかも彼の走る区間は第5区の3kmで、各校とも出場選手の中では一番走力の弱いメンバーが走る区間なのでタイム的な期待もない。しかしそうは言っても、やはり7人のチームプレーなので、できるだけチームの足を引っ張るような走りだけはしないようにとのプレッシャーは感じているようである。
11月初旬の大会当日、妻と2人で会場となる陸上競技場の周回コースに出かけて行った。レースは10時半にスタート、第5区にタスキが渡されるのは12時過ぎである。私たちが競技場に着いた時には、すでにレースは始まっていて、第1走者は一周2kmの周回コースを走っていた。係員に4区から5区への中継点を教えてもらい、長男の姿を求めて急ぎ脚で歩き出した。すると私たちのすぐ脇を中継点に向かって、早足で追い越していく彼がいるではないか。「あっ、まずい。見つかったら嫌がるだろうな...」と思ったのだが、どうやら彼の視界に、私たち夫婦は全く入っていない様子。緊張で表情が強張っているのがよく分かる。
中継点ではチーム毎に陸上部メンバーが集まって、出場選手のラップタイムを計ったり、それにしたがってアドバイスを送ったり、次に出番を控えている選手のアップをサポートしたり、レースの状況を伝えたり、全員が一丸となってレースに集中している。やはり速いのはこのところ連続で優勝している名門校で、選手の走り方が素晴らしく安定していて、無駄な贅肉は何ひとつ付いておらず、肌の色も黒く焼けていて、いかにもトレーニングで鍛えてきたという感じで、圧倒的な強さを発揮していた。
周回コースは、一般道路の路肩から幅1~2mをコーンで区切ったもので、選手のすぐ横を自動車がビュンビュン通り過ぎて行き、激しいレースともなれば、危険を伴うのではないかと思われるほど頼りないものであった。
長男の出番まで退屈な時間を過ごさねばならないと覚悟していたのだけれど、予想以上に見るべきものがあって、あっという間に時間が過ぎていった。
今までのテレビ観戦では、どのチームが優勝するのか、そればかりが焦点になって、トップを競う選手の走りばかりに目を奪われがちであった。勝ち負けを競うゲーム感覚でのみ、駅伝を見ていたし、テレビもそういう情報しか私たちに伝えていなかった。しかし、ここに来て、初めて駅伝とはテレビで見るものだけが駅伝ではないと知った。
テレビの映像は、私たちをあたかもそこに居るが如く、リアルタイムでその場の情報を映し出してくれる。新聞の情報よりも、ラジオの情報よりも、より多くの情報を私たちに伝えてくれる。しかしイメージ的に述べれば、今仮に現場で発信される情報量を100とすると、この高校駅伝で感じたように、テレビで得られる情報量はせいぜい30程度ではないだろうか。ラジオによって得られる情報量は10、新聞によって得られる情報量は5。それがテレビになると飛躍的に増大したので、あたかも全てが、テレビ映像によって私たちに伝わっているかのように感じてしまう。実際にはほんの一部の情報でしかないのに、しかも送る側の意図的判断が加わったとしたなら、単に情報が少ないと言うよりそれこそ現場とはほど遠い違うものになってしまう。現場で直接得る情報は、多くのことを私たちに伝えてくれる。高校駅伝に関しても、とり方によっては70、80%以上のものが入ってくるように思えた。情報化社会になって、随分と手軽に、様々な情報を私たちは入手することが可能となった。しかしそれらの情報は、あくまでも現場から得られるもののほんの一部でしかない。現場を知ってこそ、それらの情報も生きるというものだ。
今、我社では内部報告用の資料づくりに、そのパワーの大半をかけている。これらの資料を元に、重要な会議が何度も繰り返され、上層部へと行くにしたがって資料が手直しされていく。見た目にはより分かり易く、より説得力のあるものになっていく。そして最終的に、トップはその磨き上げられた資料だけで意思決定をはかっているのである。より30%の情報量に近づけていくために、現場の社員は全精力を注ぎ、資料の見栄えや精度を上げる努力を強いられているのである。