言葉は創造力の賜物だ。国家の成長には創造力が必要だけれど、今の日本語はレベルが落ちてしまっていて、それは期待できない...
カタカナ語
【2020年8月記載】
最近流行りの歌(ミュージック)が分からない。Jポップもそうだし、海外ミュージック、昔でいえばポップス、ロック、ソウル、ジャズなど。もっと言えば、フォークソング、ブルース、カントリー、シャンソン、カンツォーネなどで、当時はたくさんのジャンルがあった。でも近頃の音楽はそういったジャンルやトレンドが分かりにくい。私が単に知らないだけなのかも知れないけれど…。
私が若い頃は、歌には強烈なメッセージが込められていた。その歌の歌詞について考え、自分なりに解釈し、それなりの意味を与えていた。反戦、平和、愛、社会への抵抗等々。流行歌に限らず歌は歌詞があっての歌だった。日本語の歌は特にそうだった。
しかし、それも昭和の話で、このところの情報社会の進展によって、メディアはテレビ一辺倒から多種多岐にわたるコミュニケーション手段をとるようになった。昔のような歌番組はなくなり、音楽は単純に聴いて楽しむものから、聴いて、観て、踊って楽しむというものになった。耳から入る情報だけでなく、目から入る情報も重視されだした。
昭和の時代には考えられなかった音楽をダンス(振付)で楽しむなんてものが主流となって、当然のように音楽は五感で味わうものへと進化した。もちろん音質、楽器のレベルも高くなったのだが、その反面、歌の中味(歌詞)はなんだか薄っぺらになってしまったようにも感じる。昭和の頃のような社会的不安定さ(成長性も含め)がなくなり、平成・令和はとても平穏な時代であり、歌に込めるようなメッセージは必要ではなくなったと言うことなのかも。一方で、今の時代、伝達できる情報量の多さによって、あまりにも映像の力が大きくなってしまい、言葉のウエイトが軽んじられているように思えてならない。
ところで、令和に入り、このコロナ禍の中、やたらとカタカナの言葉が飛び交いだした。クラスター、パンデミック、アラート、オーバーシュート、ソーシャルディスタンス、オンライン、テレワーク、エッセンシャルワーカー、そしてウイズコロナ。なんとも分かりにくい。まだ英語に慣れている人だとそうでもないのだろうけれど、一般の人たちにはチンプンカンプンな言葉も多いはず。一気に広がった新型コロナだけに、世界共通での言葉がそのまま使われたのだと思うが、それにしても少し多い感じはする。
同じように、明治維新以降においても、外国の言葉が一度にたくさん入ってきたはずだけど、当時の日本人はそれらを巧みに日本語にあてはめて、作り直して使った。外国語の翻訳である。Scienceを科学に、Societyを社会に、Telephoneを電話に、Telegramを電報に、Baseballを野球に、Philosophyを哲学に、Hygieneを衛生に、というように日本語の特長である表意文字にすることで、新しい言葉の意味を掴みやすくすることができた。それは当時の有識者たちが、彼らの見識でもって作り出した成果だと考えられる。
それが何故今できないのか。想像力の欠如…。もしくはその必要性がないというのであろうか。日本語に翻訳すればかなりの効果があると思うのだが。確かに最近はカタカナ表示が多い。表意文字を主体とする日本語なのに、表音文字が多くなると読解力や思考力にも影響が出てきそうだ。クール(かっこいい)、コンセンサス(合意)、ダイバーシティ(多様性)、アウトソーシング(外部委託)、デフォルメ(再表現)、トレードオフ(二律背反)、マニュフェスト(公約)、アーカイブ(保存記録)、カンファレンス(会議)、クラウド(インターネットサーバ)、コンプライアンス(法令遵守)など、()内に書いた日本語では十分にその意味を伝えきれていないのがよく分かるのだが、もっといい表現ができて定着すれば、日本語の表現力も増すに違いない。
コンプライアンスは一般的には法令遵守と訳されているけれど、本当は法令外も含めての社会的なルール全般を守るという意味があり、法令遵守では本質的なところが表されていない。ダイバーシティは多様な人材を活用しようとする考え方のことで、社会的マイノリティの人たちのためのものであるし、クールは本来冷たいとか冷静さの意味なのだが、今はかっこいいを表していて、かっこよさのみが際立っている。
これらにみられるように、言葉をもっと分かりやすい表現にすれば、意思の疎通や思考に効果的に作用するはずだし、新しい文化や考え方が生まれてくる可能性があると思う。しかし、今は情報量が多くなった分、容易になんでも見られるし、見て分かる。それで簡単に分かったつもりになってしまい、思考の入る余地が無くなってしまっている。言葉は映像に付随するものとなり、その分表面的なものに成り下がってしまった。情報伝達の主は映像であり、言葉ではなくなった分、私たちの思考力は弱まって、言葉も進化しなくなってしまったのだろう。言葉は考える力の源なのだから、もっと大切にしないといけない。