みなさん、言葉を大切に使っていますか

言葉

【2012年1月記載】

学生時代の教養課程で、「言の葉、言霊は語源が同じで、言葉は霊力を持つと考えられていた」と学んだ覚えがある。言葉は大切なものということなのか。

結婚当初、義父が冗談交じりで、私のことを「年寄りの車引き」と言ったことがある。要は、掛け声だけで、ちっとも前に進まないことを意味しているのだが。結婚する時に「私は将来社長になります」と大言壮語を吐いていたからだろう。おそらくそれは象徴的な事象であり、それに類する発言を何度も私がしていたに違いない。あまりにも突拍子もない事を、実現できそうにもない事を平気で言ったことに対して、堅実派の義父は、それが実力を伴わないいい加減なことのように思えたのだろう。言ったことには責任を持つのが当たり前だと。

しかし、私の感覚は違う。言葉は自分の存在を明らかにし、周囲に自分の気持ちを伝えるものと思っていた。だから、自分の気持ちを伝えるためには、大袈裟な表現になることも許されると考えていたし、周りの人たちもその言葉が言外に持つニュアンスを理解してくれていると思っていた。この人は何を言いたいのか、言葉には表れない部分も理解してくれているものと信じていた。だから私自身は、社長になれるなんて思ってもいないし、そういう意気込みで仕事をし、ある程度の出世はしてみせる、という気持ちからの発言であった。

人と人とのコミュニケーション手段のほとんどは言葉。言葉として表現したものでしか伝わらない。表情、話し方の抑揚や手振り身振りでも伝わるのだろうが、言葉に表される情報量には遠く及ばない。

私の育った環境は、すなわち家族の間でのコミュニケーションの特長は、身の丈以上のことを、実際よりもオーバーに、相手の気を引くようにして話す。それによって互いに緊張感を持ちながら、相互の活力を引き出そうとしていた。だから、話半分。あとの半分は、あったらいいな、これから頑張るみたいなポジティブ志向だから、言葉は勝手に膨らんで、駆け巡り、みんなが楽しくなっていく。

ところが、妻の育った環境は、実に堅実で、言ったことは守るし、必要以上のことはしゃべらない。相手に変な期待を抱かせて、あとで残念がらせたり困らせたりはしない。身の丈以上のことは言わない。むしろ身の丈よりも控え目にする。でもやることは、できる限り頑張って、期待以上の事をやってみせる。努力家で安全志向だ。

だから、同じ言葉でも解釈の仕方が全く違う。私の場合は、言葉に加えてその時の感覚や雰囲気が大きな比重を占める。妻は、言葉そのものを大切にする。二人のものの考え方にすれ違いが生じているのが、最近になって分かってきた。すなわち「妻の実家の今後をどうするのか」これに対する取り組み方や考え方に齟齬が生じていた。私の態度を妻は計り兼ねていた。何を考えているのか。私の言動に疑問や不信感を持っていたのである。「妻の実家のあとは私に任せておけ」と言いながら、一向に具体的な行動を取ろうとしない私に対して。言葉と行動が一致していないと捉えていた。私にとっての言葉は、ある意味目標であり、それは今すぐ行動に移さなければならないもの、実現しなければならないものとは捉えていなかった。客観的に評価するならば、今の社会通念としては、私はいい加減だったのである。

今になってやっと分かった。私の弱点、欠点が。それは言葉を大切にしないということ。自分の感覚中心で物事を判断し、それを周囲も分かってくれていると。

長女と長男を見ていて、なんとなく私とは違うと感じていた。必要以上の事は言わないし、言ったことは必ずやり遂げる。できることしか言わない。私としては、もうちょっと親に夢を与えて欲しいものだと思っていた。ところが、次男はいつも何事も大袈裟に言うし、常に気を惹こうとしてか、必要以上の事を言ってしまう。私によく似ているのだ。彼の話は、いつも半値、八掛け、二割引きなのである。

言葉の意味するところの捉え方は、育った環境によるところが大きいとは思うが、やはり遺伝子の影響は見逃せない。