耳に痛い言葉が人や組織を病魔から護る...本当にそれが実践できたと言えるのだろうか

耳に心地よい言葉は本当に体に良いのか

【1996年8月記載】

  私たちサラリーマンはアルコールが入ると良く仕事上の愚痴や上司の悪口を言って、日頃のストレスを発散させているが、素面ではなかなか批判めいた事は言えるものではない。特に直属の上司や事業場のトップに向けては、直接的に非難するような事は絶対に言えるものではない。

  実際、仕事をしていく上で誰もが上司や部下に対しての不平不満を持っている。けれど現実には誰が正しくて誰が怠けているなんて事は断定できやしない。しかし誰も自分が一番正しいと信じているし、自分が一番良くやっていると思っている。この様な状況の中で、私たちはひそかに自分の信じていることや思っていることを第三者から肯定的に持ち上げられると、ついついいい気持ちになって、

「そうなんだよ。あなたの言うように、いつも私はこういう類の事を考え、実践しているんだよ。良く理解してくれているね。でもキミのような人間ばかりじゃあないので苦労してるんだ」

などと鼻高々で、心身ともに快調になり、活力が漲ってくるものである。褒められることや調子のいい話は何回聞いても良いものだし、体にとっても良いのだろう。しかし、こういう耳に気持ちよい言葉は、本当に体にとっても良いのだろうか。私たちは会社のトップや幹部がこの研究所に来るというだけで、日頃しないような所まで掃除をしたり、実験を止めてまでして実験室の整理をする。そしてトップや幹部に喜ばれそうな説明内容を考え、それに向けての資料づくりに専念する。実際の説明の場ではみな一様にトップや幹部のご機嫌を伺うような態度で接してしまうのである。良く社内報などで掲示されている写真で、トップや幹部を囲んで関係者が一様ににこやかに笑みをうかべているさまを見るとゾオッとしてしまう。いかにもみんながそれ様の笑みをつくって、自分たちの主張をしないでいるさまが、自己のアイデンティテーの無さが、手にとるように分かってしまう。何処も同じなのだ。そういった状況を承知の上で、トップや幹部はその表面に出てこない部分を把握しようとしているのだろうが、それとて限界はある。

  逆に耳に差し障りのある、批判めいた言葉に対しては、ついついムカッとしてしまうのが人間である。できることなら聞きたくないものであり、その内容については認めたくないのが人情である。四六時中非難されたり怒られていたら、普通の人間ならノイローゼになってしまうところだ。精神衛生上良くないことは確かであり、決して体に良いことはない。しかしその体に良くない言葉の中には、個人としてはもちろんのこと、集団として組織としての病んだ部分が必ず含まれているはずであり、初期の状態でそれを把握しないととんでもない事になりかねない。耳に痛い言葉は個人だけでなく集団や組織にとっても不健康になる前触れなのだ。耳にやさしい言葉は健康にはいいのだが、現実に全く病んでない人や組織は無いのであって、いつも耳にやさしい言葉しか入ってこない様では、本当の意味で健康とは言えないのではなかろうか。いつも耳に痛い言葉はないか、病気の前兆を探すべく健康診断を怠らないよう、努力して”聞く力”をつけるようにしないといけない。特に組織の上に立つ人は、小なりといえどもこういう点に注意すべきである。

  リーダーたるものいい気持ちに浸っていてはならない。いい気持ちにさせる人を重宝してはならない。