経験を積むことで分かることがある...それが一番大切
教訓 その1
【2014年2月記載】
幼い頃、自分の存在感を必要以上に誇示していたような気がする。何事においても、人の気を惹きつけることが大切だと思っていた。人を喜ばせることが面白かった。だから、思いついたことはすぐにしゃべった。これは面白いと思ったら、何でも言った。人の興味を惹くような話を考えた。一ヶ所にじっとしていることなどなかった。常に田畑や野原へそして山や川へとうろつき回っていた。動くと同時にしゃべっていた。しゃべらないと面白くなかったし、いつも話の中心にいるのが楽しかった。
学生時代の頃、勉強のできる奴は弁が立つと考えていた。知識のあることをひけらかさないといけないと思っていた。賢い奴だと思われるように、自分の知識や考えを口に出さないと負けだと考えていた。意見を持たない奴、何も考えられない奴、知恵の無い奴だと思われたくなかった。受験戦争に勝ち残ろうとする同世代の学生たちは、みなよくしゃべった。そう感じていた。
30~40代の頃、「雄弁は金」だと信じていた。ことわざにある「沈黙は金」という意味が分からなかった。自分の意見や考えをきちんと口に出すことが一番大切であり、如何に自分が素晴らしい人間であるかは、語らないと分かってもらえないと信じていた。だから、とにかく発言した。会議でも、思っていること、考えたこと、閃いたことは全部しゃべった。そして、周囲の人たちにできる人間だと知って欲しかった。しかし、しゃべってばかりの人間には、人の話を聞く力が足りないのではないかと少しずつ感じ始めた。
50代になって、やっと分かってきた。思っていても、考えが閃いても、すぐに口に出してはダメだということを。おしゃべりは何ひとついい事は無いというのが実感できるようになった。所詮おしゃべりは自己満足に過ぎず、言いたくても、今一度、自分の思いや考えを反芻することが、より自分の考えをクリアにし、よりレベルの高いものにできることが分かった。そうすれば考える分、間ができるし、他の人の意見も聞く機会もできる。周囲の状況もよりよく把握することができるので、自分の発言に精度が増し、人からの信用度合いが高まる。
口に出してしまう人は、第3者からすぐにその人となりが分かってしまう。自分を理解してもらえる分には良いかも知れないけれど、口数が多い分、無駄なことも言ってしまうので、底の浅さが見えてしまう。やはりどこか未知の部分がある方が、人間として魅力的だ。また、口に出したら、そのことに責任を持たなくてはいけなくなる。少し卑怯な感じもするけれど、口に出さない分、それだけ自分の負担は少なくなり、余裕もできる。
おしゃべりは、する時はあまり考えないでする。考えることとしゃべることは違う。考えながらしゃべるというのはウソだ。しゃべっている時にその言葉から連想し、発想できることはあるけれど。だから余程考えた上で、ロジックを持った上で発言しないといけない。しゃべっている時の頭の中は、閃きや思い付きだらけで、下手にそれらを組み合わせてしゃべり続けると、そのうち論理に破綻をきたす。もちろん、その発言内容は自分の中でも記憶に残りにくい。最悪の場合は、「昨日と今日では、言ってることが違う!」ということになりかねない。
しゃべるときには、よく考えてしゃべる。余計なことは言わない。言わなくて済むことは口に出さない。日常のたわいもない雑談はもちろん楽しいし、あり程度はしゃべらないとコミュニケートョンはとれないので、必要なことだ。
しかし、会議では絶対に発言しない方が得である。特に悪い話の場合、例えば責任追及をしている場合などは、その中に少しでも入ってしまうと危ない。全く関係のない場合でも、発言をきっかけに、当人扱いされてしまう。会議は、課題について議論する場であり、慎重な発言が要求される。この発言内容は、必要不可欠なことなのか、してもしなくてもいい内容なのか、不必要なことなのか、何度も繰り返し自問自答してから、やっと口から発しなくてはいけない。