目先のインバウンド需要にとらわれ過ぎているのでは...。日本文化が形骸化しそうで不安になってしまう
訪日外国人
【2019年1月記載】
毎日の通勤では、京都駅にて近鉄からJRに乗換えをしている。最近、朝早くから大きなスーツケースを押しながら歩いている外国人を多く見かけるようになった。電車の乗換えを急ぐ身にはちょっとばかり邪魔な存在である。もちろん、帰宅時にも同様の光景は多く見るようになった。大阪出張時にも、大阪駅で同じ光景を見かける。訪日外国人が多くなったのは身をもって実感できる。
休日に訪れる近畿の行楽地でも、外国人の数は多い。京都や奈良の有名な観光地は外国人であふれかえっている。日本人観光客よりも外国人の方が多いようにも思える。
電車の車内アナウンスは必ず日本語と外国語の両方でしている。私が毎朝利用している近鉄特急では、日本語、英語、中国語、韓国語の4ヶ国語でのアナウンスになっている。中国語や韓国語でのアナウンスの比率が多いように感じる。不思議なもので、意味の分からない言葉であっても聞き苦しくない。意味が分からないから聞き流している。むしろJR京都駅構内での日本語によるわざわざ説明しなくてもよさそうなこと細かい乗りかえ案内や乗車マナーなどのアナウンスの方が余程耳障りに思える。今では外国語が日常の中に入ってきて、それを違和感無く受け入れている。
2018年の訪日外国人は過去最高を記録して、3119万人だったという。政府はこれを2020年には4000万人まで伸ばす計画だ。およそ10年前だっただろうか。元観光庁長官の講演会で、訪日外国人が700万人でなかなか1000万人に到達しない、何とかして多くの観光客を呼び込んで、観光面での収益を上げていきたいというような話を聞いた覚えがある。
いつ、どうしてこんなに急激に伸びたのだろうか。多分に、アジア諸国の経済成長が著しく、アジアからの観光客が増加しているのが最大の要因だろうけれど、それと同時に、日本文化、クールジャパンの魅力を世界が認めたということなのだろう。
しかし、個人的にはこの訪日外国人の増加はあまり歓迎したくはない。むしろ、そうあって欲しくないというか、訪日外国人の増加によってもたらされる経済的効果よりも、それに伴い外国人によって日本の良さがこわされてしまいはしないかという危惧の方を強く感じてしまう。
京都を例にとれば、有名な観光地はもはや古き良き日本文化が失われてしまって、ギラギラした取って付けたようなカラフルさ、安易で大衆的な受けを狙った装飾でもって、観光客を受け入れてしまい、歴史の落ち着きを感じないものになってしまった。
先斗町はネオンが溢れ、裏小路という感覚は無くなってしまったし、哲学の道は多くの人でごったがえし、到底思索できるような散策の道ではなくなった。嵐山に至っては、歩くのでさえままならない雑踏の中を彷徨う感じになってしまっている。
京都がテーマパーク化してしまい、歴史や日本古来の文化を感じ、学ぶ場ではなくなってしまった。アニメに代表されるように、外国人がクールジャパンを楽しむためのアミューズメントの地となったようである。
また、労働力不足に悩むサービス業では、外国人労働者の受け入れを促進している。外食産業でこれら外国人のサービスを受けるのは、コスト面からも仕方ないとは思うけれど、日本を代表する観光地で、しかも日本文化を売りにするところで外国人によるサービスを受けると、とても大きな失望感を抱いてしまう。先般、有馬温泉で人気ナンバーワンという旅館に泊まったことがあるが、仲居さんがアジア系外国人で、親切に接待してくれるのだけれど、その深みを失ったように感じられてしまい、興ざめてしまった。
今の観光地では、日本の良さとは何か、何が観光客を惹き付けているのか、その本質のところをないがしろにして、目先の利益を、すなわちコスト重視で、観光客の歓心を得る事のみを追い求めているようにみえてならない。日本の文化をもう少し大切にして欲しい。