百不知、百不會
山までは見ず
【2025年3月記載】
関西に住んで50年が経つ。最も長く暮らしているのは奈良ではあるが、京都、大阪、滋賀でも生活していたので、ほとんどの場所(観光名所)は知っているつもりである。それは妻も同じで、子どもの手が離れてからというものは、二人でよく出かけるようになり、最近では行き尽くした感もある。とは言っても、季節によって様々なイベントがあるし景色も変化している。また、20年30年経つと街も変わる。なので、お出かけは何度してもいつも新鮮で楽しい。
ちょうど今は立春も過ぎ、行楽には格好の季節となった。と言うことで、桜には少し早かったが、妻の提案で京都の庭園を観に行くことにした。場所は、蹴上で南禅寺近くにある無鄰菴。元は山縣有朋の別荘で、国の名勝に指定されている。東山を借景にした日本庭園は見ごたえがあり、抹茶を頂きながらゆったりとした時間を過ごすことができた。今回のお出かけは、これで所期の目的を達成したことになり、天候にも恵まれてウキウキ気分で、ついでに岡崎あたりを散策しようということになった。
妻も私も京都は熟知している(と思っている)。このあたりで行くとなれば行くところはいくらでもある。神社仏閣をはじめ動物園、美術館、日本庭園など…。しかし何度も来ているので、特に行ってみたいというところはない。けれど、私には平安神宮を訪れたという記憶が無い。いつも鳥居はみているけれど、参拝をしたという記憶は無い。平安神宮はその歴史が浅いので、私にとしては全く興味が無かった。特に神宮と呼ばれるところは明治以降に建てられたものが多く、参拝することに意義があり、建物や庭などを鑑賞するところではないような気がしている。なので、平安神宮もお参りだけして、行ったことにすればいいかな…という程度の感覚だった。
参道を通って本殿に向かうと、なんと大極殿は工事中であり、参拝はできそうだったけれど、少し興を削がれてしまった。その時、妻が言った。
「神苑に入ってみようよ。さっきの無鄰菴で説明してくれた人が、このあたりでは平安神宮の庭も名勝に指定されていると言っていたじゃない。せっかくここまで来たのだから、入ってみないと…」
見ると、左横に神苑入口と表示してある。しかし入口に人はいない。そばに外国人の団体旅行客がガイドと一緒に十数名たむろしているが、いつも有名な観光地で見かける様な観光客の列はできていない。入っても無駄なように思えたが…。
すぐに入場チケットは購入できた。入場してすぐさま目にしたのは、まだつぼみ状態のしだれ桜の庭園だった。しかもそこを流れる鑓水には落葉がたくさん浮いていて、池泉は濁りがひどく手入れがされていないような感じさえした。全く、インスタ映えしない。さっさと巡って出るに限る。
園内には先程の外国人旅行者の団体と日本人の2、3人連れが少しいるだけで、静かである。そのまま進んでいくと、少し大きな池に出た。
「あっ、ここは菖蒲だ。前に来た時は、その菖蒲を見に来たんだ…」
妻が遠い昔の記憶を少し蘇らせたようだ。
しかし、しだれ桜も開花していないし、菖蒲もまだ先の話だ。残念だけど、今の時期は全く見るものが無い。しかし、鑓水はきれいになっている。おそらく先程の場所は最下流に位置しているのでまだ掃除されていないようだ。少し歩き疲れたので、そろそろ出口があってもよさそうなものだが…。そうこうするうちに立派な松の木が現れ、そして臥龍橋と呼ばれる踏み石のある大きな池まで来た。これなら名勝と言えそうだ。
疲れもあってか、気分は出口を探している。そのまま歩き続けると、今までとは違った景色が現れてきた。
「えっー、これが平安神宮なの?」
「京都にこんなダイナミックな景色があったんだ!」
そこには広大な池の向こうに、楼閣を持った大きな橋が架かっているのが見える。これは来た甲斐があった。平安神宮にこんな雄大な景色があったとは知らなかった。さすがに名勝だけのことはある。桜や菖蒲が無くても十分堪能できる。
まさに神苑入口までは、”山までは見ず”を侵しかねない状況だった。知ったつもりで何の下調べもせずに、情報を十分に得ることなく、今までの経験や知識だけで行動すべきではない。人の意見やアドバイスには素直に耳を傾けることだ。
福井謙一先生から頂いた言葉「百不知、百不會」を思い出す。