病弱な?私は、ズルズルと今日まで来てしまった...27年前に思っていたことが出来ないままで
なぜ貯金をするの
【1998年9月記載】
最近グランドピアノと防音室を購入した。家のローンもようやく減ってきたところなのに、また新たに借金を抱え込むことになってしまった。ただグランドピアノで聴く音は、それまでのアップライトで聴いていた音とは数段違い、借金したかいはあったと感激しているので、それなりの価値はあったと思っている。
ところで、私は体が弱いので、いつもどこか故障していて無理がきかない。たびたび原因の分からない病気にかかっては、病院通いをしたり入院したりで、人生について、死について、何故仕事をするのか、何故生きているのか、生きることの意義や目的について考えることが多くなってしまう。
そんな中でこの頃感じていることがある。お金についてである。人々は一所懸命働き、お金を稼ぎ、それでもって健康的で楽しい生活を送ることを願っているようである。そして日々の倹しい暮らしの中で、多少の蓄えをするように努め、稼いだお金を一瞬の快楽のために一度に使い切ってしまうのではなく、将来を考えてか、計画的に使うようにしている。でき得る限り貯金をしようとするのが普通の人だ。
なぜだろう。今あるだけのお金を使って、楽しく、面白く過ごしたらいいのに…。お金が無くなればまた稼げばいいのに…。
おそらく今という一瞬の中だけで生きているのではないからだ。動物とは違って、私たちには記憶する力があり、考える力がある。常に過去の経験にあわせて、現在そして将来を意識して生きているから、過去から将来にわたって生きると考えているからに違いない。できるだけ平穏に楽しく生きる時間を長く持ちたいと願うから、あるいはいつの日にかもっと楽しく生きることができる時が来ることを願って、今を生きているからそうしているのだ。
しかしこれが、明日は来ないとなったら、どうするであろうか。病気で余命幾ばくもないとしたらどうなのか。おそらく普通、今元気で生きている人ならば、その人の年齢を問わず、みな将来を意識して生きているはずである。もちろん若い人は、これから先が人生の大半であると考えていることだろうし、年老いても余程の事がない限り、まだまだ10年や20年は生きるつもりでいるだろう。だから蓄えは必要であるし、蓄えに匹敵するような保証は誰しも要る。しかし残念ながら今の世の中、楽しい人生の保証は誰もしてくれない。だから蓄えが要るのだ。
ここで人生についての見方を変えるとどうなるのか。みんな、将来があると思って生きているが、その将来だって保証されているものではない。私も40才を過ぎた。冷静に見てみると、人生の折り返し点は過ぎて、会社生活としても半分以上が経過した。実際にバリバリと体が動くのは、どう見てもあと20年。今までの病歴からいっても、思いっきり体を動かすことができるのは、実質数年あるかないかだ。今のうちに人生楽しまないと楽しむ時がないのは明白だ。将来のことは考えずに、今を楽しく生きることが必要なのではなかろうか。人生に悔いを残さないためにも…。
母も国内はほとんどの所を旅行しているが、海外は全く行ったことがない。今さら病身をおして出かけることはできやしない。連れて行ってやりたくてもできない。
いつも病気になるたびに思うのだが、
「元気に、自由に、思いっきり体を動かすことができたらいいのになあ。やりたいことが沢山あるぞ。ゴルフにテニスに、家族そろってキャンプもしたい、海外旅行へも行きたい。お金なんて貯めたって、使わなきゃあ何にもならないのだから」
しかし病が癒えて、普通の生活に戻っていくうちに、だんだんそういう感傷的な思いが打ち消されていく。
「ゴルフの会員権を買いたいのだけれど」
「そんなにゴルフもしないのに、高価な会員権なんてもったいない」
「オメガの時計が欲しいのだけれど」
「そんなもの買ったって、高いだけで何の役にも立たないじゃあないの。今や時計はファッションなのに、そんなのダサいわよ」
「ヨーロッパにでも行こうよ」
「そんなに休みが取れないでしょう」
いつの間にかまたせっせと働いて、倹しい生活を送りながらこつこつお金を貯めていく。貯金したって仕方がないのに。
定年を前にして家を買い替えた人がいる。多額の借金をしたらしく、今の生活に余裕はないというものの、広い大きな家の陽のあたる書斎で、ゆっくりコーヒーが飲める暮らしは幸せいっぱいのようだ。人生を楽しむためにお金を上手く使うことが大切だ。