画像を使っている分、言葉の力は希薄になった...?

写真について

【2015年12月記載】

もう10年近く写真用アルバムを購入していない。そもそも写真をプリントアウトすることがほとんどなくなってしまった。子どもたちが大きくなって、それぞれが個々の時間を持つようになり、家族としてのイベントが少なくなってしまい、みんなで記念の写真を撮ることがなくなったためだと思っていた。しかし、実際のところ、プリントアウトしていないだけで、意外と写真は撮っていた。パソコンの中にはたくさんの写真が入っているし、SDカードやUSBメモリはあちらこちらにあるし、その中にも数多くの写真が記録されている。もちろんスマホにも溢れるほどに写真がある。

カメラやSDカードの性能が良くなり、しかも安価になってきているため、手軽に写真が撮れるようになったこともあるが、一番の要因はスマホの登場で、いつでもどこでも気のついた時に簡単にそして鮮明に写真が撮れるようになったことだろう。これによって、誰もがバンバン写真を撮りだした。各イベント会場や観光地ではもちろんのこと、日常生活の些細な出来事に対しても、記念やメモリのための写真を撮っている。さらにLINE、Facebookなどに上げては、仲間内もしくは広く世間の人々に見せびらかせている。自分自身の存在をアピールするかのように。いくら撮っても、何枚撮ろうが、全くコストがかからないし、気に入らなければすぐにでも消去できる。こんな便利なものはない。20年前には考えられなかった情報環境をつくりあげている。何せ、一眼レフカメラとディスプレイとファクシミリを常に持ち歩いているようなもので、しかもワンタッチでそれらを操作できるのだから、これは凄い。

歳を取って少しばかり記憶が衰えてきても、スマホで撮った写真があればとても役に立つ。撮った時刻までが記録されているのだから、過去の記憶がすぐさま鮮明に蘇ってくる。人生の中でのいろいろな思い出が、写真により瞬時に呼び起こされて、とても楽しいし何度でもその時の気分が味わえる。

記憶というものはとても脆弱なもので、すぐに忘れて消え去ってしまう。また時には間違った記憶として残ってしまうこともある。それが写真を撮っておくだけで、一瞬にして鮮やかに記憶が蘇る。しかも場合によっては、その時には全く見えていなかったものまでが分かり、思い出に厚みが増すことがある。

昔は思っていた。この瞬間をきちんと目に焼き付けておくことが大切であり、写真を撮るのに夢中になり過ぎて、肝腎なものを目で見て味わう機会を逸してしまうことのないようにと。しかし、ここまで簡単に写真を撮って、それをすぐに確認することができるのであれば、情報量は多いに越したことはない。撮れるだけ撮ってしまえということになる。LINEに写真を使えば、コミュニケーションのとても強力なツールとなる。言葉と違って、とてもイージーで分かりやすい共有化手段となる。今の人には、言葉の力が弱くなっている分、この写真の力はとても大きな存在となっている。

もしかしたら、日常コミュニケーションの中に、言葉の役割のひとつとして写真が入ってくるようになるかもしれない。例えば場所やモノを写真で表したりして、

「今日は、『写真A』に行ってた。『写真B』がとってもやばかった」

なんてことになってしまう?