災害時の対応は、人の真価を現す。四半世紀経った今、すこしは成長したのだろうか。

台風7号

【1998年9月記載】

社長への報告会が2日後に実施される。開発中の試作品を大阪の研究所で展示せよとの指示があり、ワゴン車をチャーターして奈良から大阪まで運んだ。また、臨時の責任者会議も催されるということで、展示準備を終えた後、各部署の責任者は会議室に集まった。会議の内容は、10月1日付けで研究部長が研究所長に昇格するという通達が主なものであった。その場は平穏そのものであったのだが、外の様子がどうもおかしい。荒れているのだ。台風7号が関西に接近しているらしく、風雨が強まって、傘が飛ばされそうな勢いになってきた。

奈良の研究所ではスクーリングルームの窓ガラスが壊れたらしい。そのうち風雨も弱まり、台風も通り過ぎたかのように思えてきたが、近鉄もJRも奈良方面への各路線がストップしたとの連絡が入ってきた。同僚の研究室長の自宅では瓦が飛んだらしいとの話を聞き、私も家に電話を入れてみた。

「台風はどうだった?」
「車庫の屋根がほとんど吹っ飛んでしまったし、テレビのアンテナも屋根から落ちた。今までにない凄い台風で、とても怖かった」

と妻も子どもたちも興奮気味であった。しかし私は、明日は休日なのに後片付けで忙しくなりそうだと思った程度で、それほど深刻には受け止めなかった。

奈良方面の人たちは帰りの足を心配していたのだが、運良く奈良総括担当が車で奈良に向かうというので、便乗させてもらうことにした。道は割合にすいていて、約1時間で奈良の研究所に着いた。早速、所内の被害状況を奈良総括担当らと見て歩いた。屋上の実験用プレハブ住宅のスレート瓦が飛んで、まわりの数ヶ所の窓ガラスが壊れていた。また、実験用排気ダクトや温水器も傾きかけていたが、特に大きな被害はなかった。

近鉄もまだ動かない状態だったので、残っている室員を集めて本日の責任者会議の内容を説明した。一部の室員は自宅の様子が心配とのことで、早めに帰宅したが、大半はまだ残って仕事をしていた。私も説明が終わると、今日の人事異動の件で、出来るだけ速く研究部長にお祝いのメールを入れなくてはと思い、パソコンに向かった。
奈良総括担当が
「帰りはどうするの」
と心配してくれたのだが、そのうち電車も動き出すだろうと、安易に考えていたので、
「まあ、何とかなるでしょう」
と曖昧な答え方をした。
しばらくして先の研究室長が一緒に帰らないかと、声をかけてくれた。便乗できる車があるらしい。急いでメールを打ち終えて、車に乗り込んだ。
車に乗り込んですぐに、(しまった!)と思ったが、もう遅かった。室員をほったらかしにしてきたのである。研究室全員の帰宅できる可能性を確認しないまま、自分だけ家路を急いだのである。帰宅するとすぐに会社に電話を入れて、先輩の主席技師に後の戸締まりを頼んだのだが、どうもスッキリしない。

しばらくして、保安室に電話をした。
「近鉄は止まったままです。研究所の方は、みな車に便乗し帰宅されたようです。研究所の部屋の鍵は、すべて保安室に戻っています」
少しホッとしたが、それでも心配だったので、近くに住む研究室員宅に電話を入れてみた。
「車に便乗させてもらって帰ってきたみたいで、主人は今お風呂に入っています」
と奥さんの声。とても済まなく思ったが、いまさらどうしようもない。

「船長さんは、最後に救命ボートに乗らなくてはいけないのにね」
妻が言った。そのとおりである。その晩はひどく寝苦しかった。上司に怒られる夢もみた。

 緊急時には、必要以上に綿密に状況分析をすること。思い込みの状況判断はしないこと。