湯谷温泉弥山荘となって、もう30年近くになる

ふるさとを思う  その3  湯谷

【1995年8月記載】

  国道261号線を江の川沿いに北から南へ遡って走る。ここら辺りの道はここ数年で整備され、しかも信号機が全く無いので高速道路を突っ走っているみたいでとても気持ちがいい。天気は晴れ。真夏とはいっても緑がさわやかに伸びて、少しも暑さを不快と感じない。

  今日は父と母を連れだって江津から湯谷へ、もうこれで見納めになるかも知れない私の生家を訪ねにいくのである。江津から途中の川本までは国道261号線で約30km、そこから江の川の支流沿いに細く曲がりくねった道を約10km行くと湯谷に着くはずである。かつて母が自転車で女学校へと通った石ころだらけのデコボコ道は、やはりと言うかもう昔の面影はほとんどなく、とてもいい道になっていてその大半が二車線と道幅が広くなっていた。道々に飛び込んでくる農家の風景も随分と変わって、ほとんどが新しい建て屋でしかもRV車が軒並ならんでいる。途中の川本辺りから軽のライトバンが私の後を追っかけるようにして付いて来る外は、ほとんど行き交う車もなくとても快適なドライブを味わうことができた。

  もうそろそろ着く頃だと思い後方を確認すると、ライトバンはスウッと左のさらに細い畦道へと消えて行った。また1台きりになったのでゆっくり辺りを見渡しながら私も左へ、わが家のある方へと脇道に入って行った。するとどうだろう、わが家の前に先ほどのライトバンが止まっているではないか。私たち三人が車から出ると同じくして、ライトバンから一人の中年男性が降りてきた。今日私たちが湯谷に行くというのを聞いて、町役場から挨拶にきたお役人さんであった。わざわざ手土産まで持参し、一緒に土地を案内してくれるらしい。・・・・困った。三人でゆっくりわが家に別れを告げようと考えていたのに..、気持ちはとても有難いのだが、なんとなく落ち着かなくなってしまった。

  わが家ははた目にも、見るも無惨に朽ちていた。母屋の台所部分の屋根は落ち、床も抜けかけている。幼い頃あんなに大きく見えた玄関も、そんなに広くはなかった。池はすっかり夏草に覆われ、庭は見る影もない。暫し、敷地に入るのもためらわれるような有様であった。あまりの姿に言葉もない。それでも何とか昔の姿をとどめたい衝動に駆られ、幾度かカメラのシャッターを切った。しかし、それも今の現実を残していいものかどうか、むしろ思い出の中へと仕舞い込んだ方が良いのではないかという思いに押し戻されて、思ったほどにはシャッターを切ることができなかった。

  母は車椅子に座ったまま辺りを眺めていたが、父はしきりに家財道具を確認したり大切なものはもうなかったか、あちらこちらと一所懸命に調べている。私も思い出となるようなものはないかと、ぐるっと回ってみた。そのうち父が昔の写真集や祖父が貰ったらしい表彰状や記念品を捜し出してきた。とても懐かしい姿がそこら中にあった。

  もう少しゆっくりと捜し物を見たり、辺りの風景を楽しみたかったのだが、町のお役人さんは私たちが帰るまでつき合うらしく、一緒に付いて回って来る。なんだか私たちが私たちの世界に入ってしまうのがとても気の毒に思えてきて、もうこれ以上懐かしむのは諦めざるを得なくなってしまい、
「もう帰ろう。お父さんはまた来ればいい」
そう言って、私は父を促した。 もう一枚、思い出を思い出としてとどめるために、あまり細部の分からない、わが家の遠景を撮りたかったのだが、
「帰りに町役場で、お茶でもいかがですか」
の言葉にそうもしておられず、後ろ髪を引かれる思いを抱いたまま、湯谷の家を後にした。

  この次に来る時には跡形も無くなり、すべてが新しい場所になっているだろうわが家を、バックミラー越しに振り返りながら。