明日は同窓会です。できれば今の自分を消し去って、旧交を温められるといいなぁ...
二つの同窓会
【2004年11月記載】
同窓会というものは、懐かしい友人に会い、旧交を温め直すいい機会であり、自分の成長した姿もしくは成功した姿を見てもらう場であるかのように考えていた。とても楽しみなものでありそして同窓会というものには出るべきものだと思っていた。少なくとも数年前までは..。
この秋ほぼ同じ時期に、二つの同窓会の案内が電子メールで来た。一方は大学時代の同窓生有志から「同窓会を開くから集まれ」との誘いのメールであり、他方は入社時の導入教育を共に受けた仲間の集まりで、その時先輩社員として社員教育のリーダーを務めたNさんから「同窓会を開催してくれませんか」との幹事役を依頼するメールであった。
歳も50前後になってくると、子どもの手が離れてくるので、結構時間的ゆとりは出てくる。また会社生活もそろそろ第4コーナーを曲がってくるあたりで、一応のゴールは見えてくる。さらに頑張ってより高い地位まで上がれるかそうでないか、見極めはできる。多くの場合、仕事はほどよく頑張って、残りの人生、ゆったりと過ごそうかと思いはじめるのではなかろうか。
こんな時、同窓会の案内があると「まぁ、ちょっと行ってみるか」となるはずだ。しかし私は違った。「もういい。いまさら集まって酒を飲んで、バカ騒ぎをしてもしかたがない。どうせ他人の成功話や自慢話を聞くだけで、自分が惨めになるだけだ」となってしまった。しばらくメールのことはそのままにして、果たしてホントにそうなのか、自分の心と今一度相談することにした。
しばらくすると、どうだろう、私のパソコンの中でメールがどんどん飛び交うではないか。特に学生時代の同窓生たちは活発だった。簡単な近況と出席の連絡が中心なのだが、とにかく出席予定者が多い。学生時代の思い出話を取り上げたり、思い出の写真を添付する奴もいたりで、とても賑やかだ。何とは無しにみんながこの輪の中に入ろうとして、乗り乗り状態になってきた。そのうち仲の良かった連中もその多くが集まることが分かってきた。ついに私も乗り遅れまいとして、この輪の中に入ってしまった。京都で一泊するとても大掛かりな同窓会である。幹事は親から譲り受けた会社を倒産させてしまったWさんと、そんな彼を自分の勤める会社に世話した最年長者のHさんだ。そんな人生の山谷を越えてきた二人が召集をかけたからこそ、全国へ散らばっている同窓生が無理をしてでも集まろうとしているのだろう。みんなが元気を与えたり、貰ったりしようとして、互いに励ましあっているのが伝わってくる。持つべきものは友達だ。
もう一方の入社時の同窓会はというと、私がそんな心の状態であるからにして、とても幹事を引き受ける気持ちにはなれないでいた。また私が幹事を務めた前回の同窓会で、出世頭と思しき奴が部下となっている同期の仲間に、たばこを買いに走らせたという苦い記憶があり、出席すらする気になれないでいた。導入教育中お世話になったNさんに対しても、彼の権力志向の強さには辟易していたので、少し間隔を置きたかった。結局こちらの方は丁寧にお断りする事にした。もちろん出席も断った。自分の度量の狭さを実感しつつも、おそらくこんな気持ちの仲間が大半なのだろうと、今まで味わったことのない哀愁を感じてしまった。
人生の第4コーナーで味わう、日向と日陰であった。


