新しいものを生み出すために必要な事
あまのじゃく(Antithese)
【1996年7月記載】
高度成長期が始まる前、まだ小学校では暖房に石炭ストーブを使っていた頃のこと。どんな学級にも運動も勉強もできる優等生はいるものだが、それと同時に一人や二人必ずといっていい程はみ出し者もいた。
その年は例年になく寒さが厳しく、早くからストーブが焚かれていた。そんな年末のある日、大掃除をすることになり、いつもの様に先生が生徒たちの役割分担を決めようとしていた。その時、彼のはみ出し者が急に先生に楯突く様なことを言い出した。
「先生、先生はいつも床とか机とか、棚や窓の桟の拭き掃除をしようと言うけれど、床よりも天井の方が煤けて汚いぞ。どうせなら天井の拭き掃除をしようや」
先生もあまり気にせずに、さらりと受け流せば良かったのだが、この先生も30代半ばの熱血漢だから、いつも素直には言うことを聞かないこのはみ出し者をこの際懲らしめてやろうと思ったのだろう。
「そんなに言うのなら、おまえに任せるから天井をきれいにしてみろ。このあまのじゃく!」
と言ってしまった。売り言葉に買い言葉、互いに引くに引けなくなって、とうとう石炭ストーブの煤で汚くなっている教室の天井を掃除することになった。
いざ掃除するとなると、このあまのじゃくも流石に一人では何もできない。第一天井に手が届かない。何とか優等生たちに助けられ、机と椅子で足場を組んで天井を拭き始めたけれど、足場が危なっかしいものだからきちんと拭くことができない。結局、学級中が大騒ぎして、通常の大掃除よりも数倍時間を費やし、何とか拭くには拭いたのだが、雑巾の跡がまだらに残って、かえって汚く醜くなってしまった。
しかし、このあまのじゃくのお蔭で、私たちは床だけきれいにするのが掃除ではない事が分かったし、天井が見た目よりずっと汚い事も分かった。そして何よりも新しい事を試みるしんどさと面白さを味わうことができた。
結果は惨めなものだったけれど、熱血先生、最後は生徒たちを褒めてやった。そのせいか、その後も例のあまのじゃくの悪い性癖は治らなかったが..。
『天の邪鬼は、いつもわざと人に逆らった事をして、人々を困らせたりひどい目に合わせたりと、とても悪い子なのでみんなの嫌われ者でした。だからこんな子にならない様に、正直でまじめな人間になりましょう』
おおよそこんな内容の物語を幼い頃に何回か聞いた覚えがある。しかし天の邪鬼は兎も角として、本当に大人になってこの正直で真面目な人間は幸せになったのだろうか。
正直な人=自分は嘘はつかない、だから他人の言うことも正しいと信じ、素直にそれを聞いてそれに従って行動する
そんなイメージがある。人を信じて疑わない。今ある姿を信じて疑わない。世の中の出来事も仕組みも、何もかも粗方正しいものとして信じて疑わない。学生時代は先生の言うことには素直に従い、親の期待は裏切らない様に努力する。社会人になっては上司の指示に従順で、会社の方針に則って先頭を切って突き進む。いつもお利口さんの模範生、何ひとつとして悪いことは出来ない。ちょっとでも道を踏みはずすことはない。そんな味気の無い人間なんて、そうはいないだろうけれど、それに近い人生を歩んでいる人は多いはずだ。現に私自身そんな重荷を背負って生きてきたような気がしないでもない。
「正直人間なんてやめてしまえ!」
正直さというものは、何も考えない自己というものを持たない人間というものを生み出してしまう。人が人として生きるためには、正直であってはならない。むしろいつもわざと人と反対の事を考えて、現実と自分を問い直してみるあまのじゃくの思考を持った人間であるべきだ。これが私たち凡人が新しいものを生み出すためにできる唯一の手法なのではなかろうか。普通の人とは反対の発想をしよう。常識を肯定する良い子になるのはやめよう。常識に立ち向かう悪い子にならなくては、自分というものはつくれない。あまのじゃくには未来がある、そんな気がしてきた。