"授業"って、先生の力量が大きくものをいう...私は先生に恵まれていたようだ

朝三暮四

【2023年8月記載】

この夏はとにかく暑い。体温並みもしくはそれ以上の日々が続き、エアコン無しでは過ごせないというか、エアコンは必須のものとなりこれ無しでは生きてはいけない状態となっている。暑さに負けまいと頑張ってはいるけれど、そんな気持ちを支えてくれるような明るい話題は少ない。あるのはスポーツに関するものだけで、大谷翔平がホームランを打ったり、三振を奪ったりするのを見るのが一番の楽しみであり、サッカー女子WCの快進撃に期待したり、贔屓のガンバ大阪が最下位から急浮上していく様を喜んだりするのが、関の山である。

ウクライナでの戦争はいつ終わるのか見通しも立たず、日本経済は相変わらず低迷したままで、円安と物価高で庶民は日々の生活に追われている。それなのに、マスコミから流れてくる政府の姿勢には、国民に対する誠意が全く感じられない。いつからか政府の発信するコメント内容は乏しくなり、言葉はそれが持つ本来の意味をも失くして、ただ空しく響く。

強引とも思えるナイナンバーカードの普及に関するトラブルにしても、東電の原発汚染水放出に対しても、常にあいまいな態度で、その場を濁し、そのまま押し通そうとする。何でもかんでも「丁寧に説明する」とか、「住民に寄り添って対応する」など具体的な意味を持たない、もしくは適切な表現を意識的に避けようとしてなのか、分かりにくい言葉遣いを多用している。また一方で、少子化問題や多発する自然災害や円安物価高への対策と称して、国民へ一時金的なバラマキ策を実施している。

それに対し、私たちは納得し受け入れているのが実情だ。近年まれにみる増税に苦しんでいるというのに、補助金だとか支援金やポイント付与とかに惑わされて、本当の意味での税金の使い方を吟味することなく、目先の損得で納得させられてしまっている。

まさに「朝三暮四」である。

高校生の頃、漢文の授業で朝三暮四の故事を知った。A先生(なぜか坊主頭であった)の解説はいつも面白かったので今でもよく覚えているのだが、A先生曰く「こんな話はあり得ないと思うだろうけれど、現実の社会ではよくある話だ」と。その時私は思った。「まさかこんな事あるわけがない。とても単純な計算を誰が間違えるのか。間違えようが無いのに…」。だから、とてもよく記憶に残っていて、それがいつも事ある毎に蘇ってきて、現実を思い知らされている。今のように。

高校生の時は大学受験が第一で、受験科目に特化して勉強したはずなのだが、意外と記憶に残っているのは主要科目からは外れた特色ある先生に教わった授業内容が多い。漢文もそうであるが、世界史のM先生の講義は、その語り口調に引き込まれて行って、ほとんど中世までしか教わらなかったけれど、歴史の面白さを味わえた。化学のD先生も、化学式のクイズを出してくれて、なんだか遊んでいるようだったし、地学のK先生は、全員に星座手帳を配り、テストには必ず星座の問題を出したので、自ずと星座には詳しくなった。

こう考えると、勉強とは何か。何を学ぶかは、単純にテストの成績を上げるだけではないような気がするし、教える方も「何を教えるか」をきちんと持っておかないといけない。当時も受験戦争と言われていた時代ではあったが、受験以外にも多くのことを学んでいたのだと、あらためて当時の先生方に感謝している。