実は、文字の方が映像よりも得られる情報量は多い
情報の質と量(映像と文章について)
【2008年9月記載】
「映像は、文章では表現困難な事柄まで一瞬のうちに伝達する力をもっているが、伝えうる情報の質と量になると、映像よりも文章のほうが断じて優れている。ただし、それほどの質と量の情報を受け入れる頭脳と感受性の持主となればかぎられてくるのも当然で、映画の観客数に比べて書物の読者数は桁ちがいに少ない」※1
本当にそうなのだろうか。そうだとしたら私はとんでもない勘違いをしていたことになる。日常的に私たちが得ている情報は、視覚から8割、聴覚から1割で、圧倒的に視覚からの情報量が多いと考えられている。したがって、映像による情報伝達はすばらしく効率的で、効果のあるものと信じていた。実際、パソコンやインターネットで扱う情報に映像が含まれていると、途端に情報量としては桁違いに大きくなるし、文字や文章では伝えきれない画面で、感覚的に私たちを納得させてしまう。
少し大胆な仮定になるが、視覚情報イコール映像、聴覚情報イコール文章と置き換えて考えてみると、私たちに入ってくる情報量としては圧倒的に映像が文章に勝っていると思えるし、実際のデータとしても映像の方が膨大だ。質的なものだって、感覚的に分かりやすい映像が勝っているような気がする。
ところが、ヘレン・ケラ-の言葉に、「目が見えないことは人と物を切り離す。耳が聞こえないことは人と人を切り離す」 また、「目と耳のどちらかがよくなるのだったら音を聴きたい」というのがある。幼くして視覚と聴覚を失った彼女にとって、聴覚はとてもすばらしい器官なのだ。言葉はもちろん自然界の生業や人の感情までもが音で分かってしまうのだろう。入手できる情報量が多いから良いというものでもないようだ。
映像情報は、あまりにも一方向性が強く、受け手である私たちは送られてくる映像を何も考えずにただ受け入れるだけであり、分かりやすい反面、頭の中で考えるという作業を起こしにくい。
一方、文字情報は、見た目はシンプルだけれども、情報の密度は高い。文字、単語や文章に含まれる意味はとても深く、広がりもある。長い歴史の中で単語や文章には、いろいろな意味や事例が含まれてきて、データ自身の持つ価値が高くなっている。受け手の知的レベルが高ければ高いほど、価値は上がる。文字は人の頭の中で対話をしている。分かりにくいけれど、一旦理解すれば映像では表現しきれない情報をもたらしてくれる。そう考えると、意外と文字情報は量的にも質的にも大きいと言えるのではなかろうか。
ところで、私たちは文字情報を十分活用しているのだろうか。今の会社に入社して違和感を覚えたひとつに、レポートの形式があった。とにかく文章が短い。文章ではなくて、単語を並べたようなもので、絵や図が入ればよりグッドとなった。少し戸惑いはあったものの、そのうちに慣れて、「レポートというものはこうでないといけない。これが分かりやすく、一番良い」と思っていた。が、これでいいのだろうか。なるほど、時間の無い人や考える力の無い人には、確かに有効だけれど、これで本当に正確な情報が伝えられているのだろうか。内容を十分に伝えきれているのだろうか。「見て分かる」は大衆(一般消費者)に受け入れられるためには大切なことだけれど、社内では違う。情報伝達手段としては、不十分なのではないか。情報内容の量はもちろんのこと、相互の思考力の低下を招くのではないか。情報の持つ意味を浅く捉えてしまい、それに満足して、一歩先を見通す力を失っているのではなかろうか。
映画は娯楽としてはとても面白い。テレビもほとんどの場合、娯楽番組を見ている。映像からくる情報は多いけれど、ほとんどの場合、私たちの体の中を素通りしている。もっと文章に触れ、脳での会話をすることが大切だ。子どもも、大人も、老人も、会社も。映像よりも文章を大切にしたい。テレビよりも本が絶対に優れている。
※1 塩野七生 ローマ人の物語30 終わりの始まり[中] p129