年齢を重ねると、時の感覚が分かるようになった。不思議だね...
味わう力
【2016年11月記載】
再就職し、滋賀まで通勤するようになってから一年半が経った。前の会社よりは仕事の内容が限られてしまうので、行動範囲も自ずと狭くなった。が、その分、京都や奈良に絞って見聞を深めようと考えている。つまり、通勤定期を使って、京都や奈良を楽しもう。京都や奈良で今までに行ったことのない名所や旧跡を訪れてみよう。見たことのない行事やイベントをこの目にしっかりと焼き付けておこう。そう考えて、妻と二人で出かけることが多くなった。もちろん、仕事と遊びを一緒にしているわけではない。仕事上の行動範囲に休日の行動範囲を合わせて、効率よく人生を楽しみたいと思った。
歳をとると、やはり行動範囲が狭くなるし、体力的にもハードなスケジュールはたてられない。休日にちょっとずつ、話題性のあるところ、今まで耳にしてはいたが行ったことのない場所へ出かけて、楽しんでいる。京都も、桂離宮、仙洞御所、真如堂、智積院など今まで取りこぼしていた名所旧跡を訪ねたし、奈良も、室生寺、吉水神社、岡寺、談山神社などちょっとばかり行き難い所へも出かけていった。そして、ゆっくりと時間をかけて、今の景色と時の流れを味わうことができている。
学生時代や社会人になったばかりの頃にも、京都や奈良は幾度となく訪れた。けれどそれはほとんどが新しいものを発見し、体験するためのものであり、グイグイと前に突き進むエネルギーを発散させるものであったように思う。金閣寺、銀閣寺、清水寺に、嵐山。東大寺、法隆寺に飛鳥めぐり。それこそ観光地のメジャーを訪ねて、教科書をおさらいし、すべてを知ったかのように思っていた。そして、この歳になった今、再び訪れる社寺仏閣は、当時と比べても、そんなに変わった印象を持つというわけではない。歳を積み重ねることによって受ける印象が変わったとは思わない。ただ、若い頃に見落としていたものを少しはとらえられるようになった。建造物、室内装飾品、庭園様式など、今ある一つひとつのシーンを味わいながら、同時に過去の在りし日の姿や季節の移り変わりを想像しながら観賞しているのである。
若い頃は一直線に、ただひとつのベクトル方向に、のびゆく未来に向けての刺激を求めて、ものごとを見ていた。しかし、今は違う。世の中がある程度分かっている今は、ものごとの限界を知っている。すべてが無限だとは思わない。限りある空間と時間、そして人間のできることの範囲が分かった上で、これらを観賞している。そうしてみると一つひとつの庭、建物、装飾品や調度品がとても素晴らしいものに見えてくる。人の力が見えてくる。時間の概念がより色濃く私の心の中に入ってきているのである。
三月の初め、しだれ桜で有名な大野寺に立ち寄った。まだつぼみをつけているのかどうなのかも分からない桜の木の下に佇み、妻は言った。
「もう、この風景を見るだけで私は十分。桜が満開のときが想像できて、とても満足しているのよ」
なるほど、桜の満開時は大勢の人でごった返すに違いないし、そのあわただしい中で満開の桜を見るよりも、今のこの静けさの中でひとりゆっくりその光景が味わえるのならそれもいいだろう。決して負け惜しみではなく、心底そう思っているらしい。
ふーん、そんなものなのか。その時はそう思っただけだった。ところが、先日、文化の日に談山神社へけまり祭を見学に行った時も、十三重塔を見上げながら妻が言った。
「楓の木に囲まれたこの風景を見るだけで、赤く色づいた様子が想像できて、十分満足できるわ」
まだ、一部、木の先っぽが少し赤く染まっているに過ぎない木々を眺めながら、私もそういう気分に浸った。紅葉はしていないけれど、この景色は十分観賞するに値すると。
若い頃のアクティビティはないけれど、体が動かなくなった分だけ時間がゆっくり流れているようで、時間の感覚がより強く感じられるのかもしれない。単純にその時の空間を刹那的に味わうのではなく、今までの知識や経験の中で培った時間感覚を加味しながら、その空間を醸成していく力がついたのだろう。
多くのものを見ることにより、感性は磨かれていく。だから、以前は分からなかったそのものの特長や他者との違いが分かるようになる。加えて、年輪を重ねることにより時間の感覚もついてくる。年寄りはそのへんの感性が優れているのだろう。名所旧跡に、お年寄りが多いのはそのことによるのかもしれない。