帰省は死語になっていく...今年の夏はどう過ごそうか
お盆
【2008年8月記載】
夏期休暇は必ず帰省することに決めている。妻の実家に寄って、それから私の実家に帰るのがいつものパターンで、それぞれ同じ日数だけ泊まるのが、我が家の暗黙のルールである。
今回の帰省は4泊5日で、例年より少し短い。あまり長く滞在すると実家の負担が大きくなり、年老いた親たちに迷惑をかけることになる。娘が学生時代のサークル仲間の集まりに参加したため、帰路は神鍋高原へ寄ったこともあり、往復でいつもより長い道のりとなる1100km余りを、新しく購入したマークXジオで走行した。娘や息子も運転免許を持っているので、それぞれ300kmずつ運転を担当してもらい、妻や私の負担はとても軽くなった。子どもたちもいつしか大人になっていたのを実感することとなった。
子どもたちが幼い頃は、寸暇を惜しんで実家の周りのプールや海へ出かけ、泳いだり釣りを楽しんだり、あるいは都会では考えられない広さの庭や公園でサッカー、バドミントンそして野球をして遊んだものだ。しかしこのように大きくなってくると、それぞれが自分の時間で、自分のやりたい事をするので、帰省しても親の出る幕はほとんどなくなってしまった。したがって私のすることといえば、実家のメンテナンスがメインとなってくる。電気製品の不具合なところを修理したり、網戸、障子や襖の貼り替えなど、結構役に立つことを任されるようになった。
「やっちゃん、裏の部屋の網戸が破れているので修理してくれない?」
「お義兄さん、換気扇が故障して動かなくなったんだけど..」
「パソコンにUSBを挿入してもデータが読み取れないんだ」
等々、お願いされると、頼りにされていると思ってしまい、とてもうれしくなって、ついつい実力以上に頑張ってしまう。けれどこれは裏を返せば、それだけ父や義母にできない事が多くなっているということで、歳月の経過を、父や義母の老いを感じてしまう。
結婚したのが27年前。いつしか私たちも当時の親たちの年齢に達してしまっている。いつまでも元気な父や義母であるが、それでも体力的な衰えはあるようで、動作も少しずつ機敏さを欠いてくるようになり、食欲も少しずつなくなっているようだ。父は話が長くなり、話題も同窓会や親戚に関するものが中心で、限定的、繰り返し的なものが多くなっている。
お盆に帰省するということは、毎年同じことの繰り返しに過ぎないと思っていたのだが、実は少しずつ変化が生じていた。年に一度帰省することで、その変化を現実として捉えられるようになってしまった。それだけここにきて変化のスピードが速くなっているということか。今まではそれほど感じることはなかったのに。
父は今年で85才、義母は75才。後期高齢者といわれる年代であり、体力的にも知力的にも急速に衰えていくのは仕方のないところだろう。
人生の大筋のパターンは誰もが同じで、如何にしてその中で生を感じとることができるか、生を味わうことができるか、が大切だと思っているのだが、こうも老いが身近に迫ってくると不安になってくる。これから先、何かいい事があるのだろうか。自分自身が成長できることって本当にあるのだろうか。それがないとしたら、充実した人生にはならないのではないか。衰えていくだけの人生の中で、一体何を生き甲斐にしていけばいいのか。もちろん、会社生活の中でそれが得られれば、それでいいのだが、それとてこれから5、6年の間のことに過ぎない。これまでの私の人生は、決して順風満帆とはいえないけれど、それでも客観的に見れば順調であったし、実際、楽しく充実した良い人生であったと言えよう。しかし、これから先、何を楽しんで行けばいいのか、この限りある人生を。仏壇を拝むたびに、そしてお墓参りをするたびに、何度も何度もそんな思いが頭の中を巡った。