家事とは家族あっての作業であり、他者を思いやる行為だと思う
ひとりになって
【2023年4月記載】
昨年後半より妻は、1週間おきに三次と奈良を行ったり来たりしていたが、体力的に無理があったので、その間隔を少し開けて、月の半分は三次へ行き、残りの半分は奈良に居ることにした。妻が三次不在の半月は、義母にはひとりで頑張ってもらうことにして、その間はできるだけ毎日誰かの目が入るように、ケアマネさんに来てもらったり、デイサービスの施設に行ったりすることにした。
だから、この4月からは奈良朱雀にある自宅は、月の半分は私が一人でいることになる。次男は2月に独立してしまったし、長い冬を一緒に過ごしていた義母は4月から三次に戻ったので、妻のいない半月間は私一人での生活となった。
いざひとりで暮らしてみると、今までの家族での暮らしと違って、少し気が抜けた感じがする。仕事を辞めた当初の妻不在時には、家事(料理、掃除、洗濯)に対する負担が大きいと感じていたのだが、今はそうでもない。慣れたという面もあるのだろうけれど、それほど力を入れなくても済む。ひとりだと、あるものを食べて済ませるし、特別に何かを作ろうとは思わない。自分が満足できる?レベルで、不満がなければ冷凍ものでも、同じものを続けて食べても何ら支障はない。掃除だって、少し埃があっても構わないので、2、3日に一回で十分だ。毎日隅から隅まできっちり掃除機をかけることはない。洗濯もそうだ。なにせ、ひとりだと量的に少ないし、自分さえよければ同じものを何日でも着ていても気にならない。だから、毎日洗濯する必要もない。
次男が居ればそんなことはできない。何を作れば喜んで食べてくれるだろうか。これで十分足りるだろうか。作業服は汚れていないか、着替えはきちんとしているのだろうか。ごみやほこりがあったら気分は良くないはずだから、掃除は毎日しなくては…。
考えるに、自分のためというのは最低限の目的であり、家事というのは家族のためにするもののようである。家という箱の中(ハード)での暮らしを上手にマネジメントすることであり、この箱の中がひとりだと家族ではなくなり、家という概念も希薄になるのかもしれない。複数の人が暮らし、行き交うからこそ家族というものがあり、それを維持していこうとする力が働く、それが家事なのだろう。
ところで、ひとりになると“話す”ことが極度に減少する。今は仕事もしていないので、その気になれば一日中誰とも話をすることはない。対話によって頭の中が活性化されるとか、気分的に開放されることが無くなるので、少し内向的になってしまう。だからそうなのか、心の中にドヤドヤと入り込んでくるようなTV番組はあまり見なくなった一方で、静かに音楽を聴いてボーとしている時間が増えている。
最近はICTの進展により、コミュニケーションツールが充実し使いやすくなっているので、ひとり暮らしでFace to Faceの会話が少なくなっても孤立することはない。たまに家族、兄弟や友人とTelやビデオ通話をする時があるが、気分が高揚している自分がそこにいるのが分かって、つくづく会話の重要性を感じてしまう。
ひとりは気楽でいいけれど、私には合っていないし、ひとりだと一気に老け込みそうだ。家族でいることを心がけたい。

