天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず
格について
【2025年5月記載】
関税をめぐる日米交渉にて、トランプ大統領と面談した赤澤亮正経済再生担当大臣が、記者団に対して「格下も格下と直接話をしてくれたことに感謝している」と語った。
これをTV報道にて見たのだが、とても強い失望を覚えるとともに、しばらくは信じられなかった。事もあろうにとても重要な外交協議にて、我が国を代表する大臣が、自分で国の地位をおとしめる様な発言をしたのである。格下も格下だと…。相手がどんな大国や強国であろうが、国と国との交渉は対等なものであると考えていたし、我が国は明治維新より常に諸外国と対等の立場で様々な交渉に臨んできたと学んでいたので、にわかには受け入れられなかった。あまりにも未熟で稚拙だったとしか言いようがない。
考えるに、赤澤氏の意識の中で、人と接する時にはいつも”格”というのが念頭にあり、相手は自分より上か下か、それでもって話を進めていたのだろう。格というバイアスが入った状態でもの事を進めていた。上の人には迎合し、下の人には威圧的に…そうなるのが彼の感覚であったように思える。だから、
「大統領は本当に温かい配慮の方。”格下”と会っているということは本当に感じさせず、器の大きさというか温かさというか、配慮は非常に感じた」
となる。トランプは、交渉相手の強弱を意識してはいるが、格という感覚は持ち合わせていないはずで、ましてや格下と会っているなんて思ってもいないだろうから、こうなるのは当たり前である。
ところで、”格”とは何だろう。地位、身分、気品、等級を指す言葉で、人の格付けとして使われる。
先日、萬葉植物園で藤の花を観賞していたのだが、その時、数人のSP(護衛官)を見かけた。何事かと思っていると、春日大社宮司の花山院さんが、高円宮妃久子様を案内しているではないか。ものものしさはないがしっかりと警護されていて、さすが皇室の方だけのことはあると感じた。本当に警護が必要なのかどうかは別として、身分の違いがはっきりと分かる。これが本当の意味で格が違うということである。ただ、この警護のやり方は、”格”が全く違うということを誇示しているようにも思えた。
一方で、近年は格差社会と言われるようになった。所得や教育などで人々の間に大きな差が生じ、社会が階層化されてきたというのである。所得格差、資産格差、教育格差、地域格差などで、世の中が富裕層と貧困層に分断されて、大きな社会問題になっている。
格差とは人々を階層ごとに分断することであり、格付けをするということは人々を平等に扱うことを否定し、為政者が統治しやすくするためである。階層に分けることは、支配階級の権力保持のためにはとても有効である。
私は長年、格というものを考えたことはなかったし、必要だとも思っていなかった。否、人を格でとらえることはしてはならないと信じてきた。けれど、今の世の中、今の社会に、それは厳然として存在し、私たちを支配しているのだと実感している。
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」
たとえ貧富の差が生じても、人はそれによって差別されてはならない…と私は思う。