書く力はその人を現す。映える画像よりも...

名筆

【2019年1月記載】

先日、東京出張の際、東京都美術館で開催されているムンク展に行った。ムンクの「叫び」は教科書にも載っている有名な絵である。この機会を逃すわけには行かない。その際、隣りの国立博物館では顔真卿の特別展が開かれていた。顔真卿も世界史で学んだ有名な書家である。興味はあった。どんな上手い字を書くのだろうか。もの凄い達筆なのだろうと。

宣伝用の立て看板にあるその字を眺めたけれど、それほどとは思われない。決してきれいな字ではない。が、そこに表れているものは、彼そのものであり、筆のタッチには彼の技能や心の状態が表れているように感じられた。整然と書かれている部分もあれば、乱れていたり、書き直してあったりで、文章の内容は分からないけれど、あきらかに感情の起伏は見て取れた。顔真卿の書は、彼そのものなのだろう。

私は、小学生の頃、父から書道を習っていた。毎月専門誌に投稿し、その出来栄えによって段位を与えられるものであった。毎月締め切りが近づいてくると、決まって厳しく手直しされては泣いていた。元々私は筋が悪かった。いくら練習しても上手に書けない。ところが、3歳年下の弟はいつも一発で、父から合格をもらっていた。彼は父に似て、その才があった。素晴らしく字が上手だった。父の家系は、字が上手だった。その点、母の家系は上手くなかったように思う。母も慶弔時の筆は、いつも父に頼っていたのだから。

私としては、相当な努力をしたと思っている。だから、筋はよくないけれど、それなりに見やすい字、整った字を書くことはできる。人前で字を書くことも恥ずかしくはない。人並み以上だと思っているから。父の価値観でもって教育された成果なのだろう。一方で、もうひとりの5歳年下の弟は、相当に字が汚い。悪筆にもほどがあると感じてしまうほどのものである。彼は末っ子で、私ほどには手をかけてもらえなかったのだろう。

ところで、最近の若い人は字を書く機会が少なくなっているせいなのか、字が上手といえる人がいない。あまり上手くない。私の長男にしても、次男にしても字は下手だ。センスがない上に、その練習をしていないし、その機会も設けていないのだから当然だろうけれど。

パソコンやスマホを利用するので文字を書くという行為がなくなった。漢字は読めるが書くことができないといった人が多くなっていると思う。入社時の選考に用いる履歴書や自己紹介書はパソコンで作成する。自筆で書くということは少ない。手書きの書類のほとんどは、文字そのものがみにくい上に、そのバランスが悪く、とても読みにくい。読み手に対しての印象は決してよいものではない。

ところで、今の時代は、ICT技術が発達して、個人情報はいろいろな形で伝えることができるようになった。文字や文章での伝達もあるけれど、そのメインは画像となっている。伝達できるデータ量は格段に増えたし、それも瞬時での伝達が可能となった。自己表現の方法はいくらでもある。デジタル化された文字や文章、自分自身や身の回りの画像、静止画だけでなく動画でさえもネットに上げることができる。いくらでも自分自身を知ってもらう手段はある。

しかし、ほんの少し前までは、こんなことは想像だにつかなかった。それこそ百年以上前は、写真ですら日常的なものではなかったのだから。自分を表す手段は文字や文章、それも手書きのものでしかできなかった。自ずと文字や文章を書くという行為に注力せざるを得なくなる。書いたものは、その人そのものを伝える唯一のものだった。だから、下手なものは書けない。書は人格や能力を表すあるいはそれを記録するものであったに違いない。そう考えれば、書に対する意気込み、それにかけるエネルギーそして価値観の高さというものは、今とは比べものにならないほどであったと思う。書を見て、その人を感じ、判断や評価をしていたに違いない。

高度情報社会は、私たちから書く力を奪っていくようにも感じられる。文字や文章を通して、頭の中で考え感じていたものが、データ量の豊富な画像によって、直接的に目から脳へ繋がることによって、分かりやすく便利になる一方で、思考の過程が削り取られてしまったようにも思えてくる。データ量が多い分だけ、脳に対する刺激が強く(説得力があり)、有無を言わせないものになってしまっている。みんながインスタグラムやフェイスブックに引きずり込まれ、そこで画像の出来栄えを競い合っているのも至極当然の結果なのだろう。