伝統芸能は、歴史の中で、そして人生の中で味わうもの

歌舞伎座

【2013年10月記載】

以前、新築したばかりの銀座歌舞伎座を見学に行った。霞ヶ関で会議をした後、時間があったので、立ち寄ってみた。一度は歌舞伎というものを見てみたいという思いは強かったので、空席があれば観たいと考えていた。しかし、2万円の席が僅かに残っているだけで、ちょっと立ち寄ってみたというレベルの気軽さにとっては少し高すぎる。だから断念した。

歌舞伎座を訪れる観光客は多いけれど、よく観察してみると、ほとんどの人は実際の歌舞伎を見るのではなく、観光名所としてその雰囲気を味わっているだけである。そういう人たちでごった返しているのであって、多くの人は歌舞伎というものを本当に味わうことができずにいた。この時、歌舞伎というものはあらかじめ計画を立てて予約をしなければ、とてもではないが、観られるものではないということを強く意識させられた。

その時の印象を引きずっていたのか、いつかは歌舞伎というものを観たいという欲求は持ち続けていた。そして再びその機会がめぐってきたのが、その3ヶ月後、同じく霞ヶ関での会議の後。今度はあらかじめチケットを手配していたので、安心して、少しゆとりを持って、歌舞伎座にチャレンジできた。席はもちろん2階席で、ほどほどに安いところ。場内の雰囲気をつかめればそれで目的は達成できるので、無理はしない。

午後の4時過ぎから始まって、終了時刻は9時前。帰りの新幹線を考えると、7時過ぎには退席しなくてはならない。それでも十分歌舞伎を味わえるはずだ。

出し物は義経千本桜で、その中のいがみの権太郎。片岡仁左衛門が主演である。仁左衛門は、襲名前の片岡孝夫の時代によくテレビ出演していたので、なじみが深い。初めての歌舞伎観賞なので、音声ガイドを利用する。物語の内容解説はもちろんであるが、その背景や歴史的意味合い、また演技の見どころや義太夫節の演奏などを丁寧に解説してくれるので、とても歌舞伎が分かりやすい。

振り付けは単純であり、とても特殊な技能が必要だとは思えないが、一挙手一投足にメリハリがあり、なんとなく面白い。私も子どもの頃、石見神楽をやっていたので、感覚的に共通するものを感じて、楽しめる。踊りと音楽そして衣装の華やかさがうまく交じり合い、心地よい。加えて、その物語性が日本人の心を動かせてしまう。

初めは「いがみの権太郎」はマイナーなイメージで、物語としても魅力は感じなかった。ほとんどその内容には期待していなかった。ところが、舞台が進んでいくにつれて、その中に入り込んでしまう。権太郎は、いわゆる「権太イコール悪い、手に負えない奴」の元になったという解説を聞き、「ははーん、そうだったのか」と思いながら観ていると、その権太郎が、今までの悪事をつぐなう行為をするのだけれど、それが誤解されてしまうというくだりで、はっと思い出した。新美南吉の“ごん狐”を。

権太郎→権太→ごん なのだと。そう気付くと、急に歌舞伎が身近に感じられ、とってもうれしくなった。幼い頃、一所懸命に舞った神楽、そして教室のストーブにあたりながら読んだごん狐の物語。秋から冬にかけて、暗く寒い山間のひっそりとした中ではあったけれど、私たちは歴史の中で生きていたんだと。あらためて、私たちの持っている文化の奥行きの深さと有難さを感じたのである。