人の評価は難しい。私はその人の持っているベクトルで評価したい

悪人

【1997年1月記載】

  親鸞の歎異鈔に『善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。世のひとつねにいはく、悪人なほ往生す。いかにいはんや善人をやと』ということばがあるが、これはとても難解で、納得し難いものである。何故、善人として世の人に迷惑をかけずに真面目に努力し、生きてきた人と同じように、何もせずむしろ世の中の人々に迷惑をかけるような事をしてきた人でも、仏に救いを求めるだけでより極楽浄土に行けるのだろう。そんな馬鹿な話は無い、庶民を欺く言葉のマジックに違いない。そう思い込んでいた。

  しかし人には生まれつき持った能力に差がある。出来の良い人もいれば、悪い奴もいる。出来の悪い奴でも悪いなりに努力すれば極楽に行ける、むしろその努力の仕方によってはより良いあの世が待っている。そう捉えるととても元気の出る言葉ではないか。今の世の中、変に学歴が重要視されているけれど、少しばかり素質があっても、知識があっても、やる気がなければ何にもならない。仕事は心の持ち方で、うまくも行くし悪くもなる。努力し向上して行く力が無ければいい仕事は出来ない。そういう意味で、才能や過去の努力の結果だけで未来が保障されているとはしない、馬鹿でもアホでもこれからの努力次第では救われる道があるというのは、未来が何とでもなりそうで面白い。

  ところで、テストで80点とったAさんと75点とったBさんと、どちらを評価すべきなのだろうか。前回のテストでもAさんは80点だったのだが、Bさんは60点だった。今回、Bさんは頑張ったのだが、Aさんにはやっぱり負けてしまった。これを単純に今回だけの成績で判断したら、Bさんは評価されないだろう。しかし、これから将来に向けて成果をあげて行こうとするならば、現時点でのポテンシャルだけで評価してはならない。その人が持っている”勢い、パワー”なり”運動量”が大切なのだ。個人の知識や経験量だけでその人を評価してはならない。いはんや過去の成果の遺物であるような経歴や資格だけで見てはならない。要は今何をしてくれるのか、そしてこれから何をしてくれるのかが、仕事をしていく上では重要だ。Aさんは今も80だし、これからも80だろう。しかしBさんは今は75だけれど、次は90が充分期待できるのではなかろうか。そう考えるとBさんは評価に充分値するはずだ。

  私たちは人を見るとき、過去の資産で評価するのではなく、未来の資産で評価すべきなのではなかろうか。幸い、我社にはこういった風土がある。学歴や派閥にとらわれない、役職に縛られない活性化した雰囲気がある。頑張った、けれどまだ充分じゃあない。でも明日への目標を持って努力している人を、これからも大切にしていかなくては企業としての成長は見込めない。

  過去を捨て去って、成長しよう。