マンガは娯楽として素晴らしいけれど、表現力や想像性には限界があり、早晩古典と化すのでは...
マンガ
【2020年1月記載】
クールジャパンの代表格は何と言ってもアニメだろう。日本のアニメは世界を席巻している。古くは、手塚治虫の「鉄腕アトム」や松本零士の「宇宙戦艦ヤマト」などから始まり、最近では、宮崎駿の「天空の城ラピュタ」、新海誠の「君の名は。」をはじめあげればきりがないほどたくさんの話題作がある。
もう50年以上も昔のことだけれど、当時小学生の私は、とにかくマンガが大好きだった。週刊マンガ雑誌“少年サンデー”“少年キング”、月刊雑誌“ぼくら”“少年画報”など、そのほとんどを読み漁ったし、当時は貸し本屋などもあって、そこで頻繁に立ち読みしたものであった。叔父さんが本屋をしていたこともあり、書店の奥に入って隠れて売り物のマンガ雑誌などを読ませてもらったことも度々だった。もちろんいわゆる普通の本、活字だけの本も好きでよく読んでいたけれど。
マンガはわかり易かった。絵を見るだけでイメージできたし、視覚から入る情報は何の想像力も必要なかったし、世間を知らない知識の少ない子どもにとっては、直接的に頭に入ってきて、とてもワクワクするものだった。だから劇画的なものよりも、シンプルに人物や事象をデフォルメしたスッキリした画風を私は好んだ。ストーリーも単純で勧善懲悪的なもの、そして出世物語や成功話がよかった。マンガはとてもわかり易く簡単に、情報量としてはたくさんのものを私に提供してくれるものだった。
しかし、成長するにつれて、マンガの存在はとても希薄なものになっていった。そもそも中学生や高校生になると、勉強や部活に割く時間が多くなり、とてもマンガに没頭していられる状態ではなくなってしまった。加えて、興味の対象がより幅広くなってしまい、音楽、スポーツ、TVや映画など、マンガのウエイトは極端に少なくなった。
さらに、大学、社会人となるにつれて、マンガから得られる情報は他の手段に比べて少なく、マンガは幼稚な読み物、レベルの低い娯楽であり、大人の読むものではないという感覚になってきて、電車などでマンガ雑誌を広げている大人たちをさげすむようになってしまった。マンガから得られる知識は限定的であり、マンガって知識人の読むものではないと。
それとは逆に、時代が進むにつれて、マンガはアニメと呼ばれるようになって、日本文化の象徴であり、最先端のカルチャーとなり海外からも注目されるものとなった。マンガは人物や物事をデフォルメし、その特長を誇張することによって、見る人の視覚に刺激を与えるもので、新しいものや世の中に存在しない空想的なものを表現するのにとても使いやすいツールだった。文章だけではとても難しいし、写真も有効ではあるがつい最近まではデータとして活用するには重たすぎたのだから。
しかし、今では、マンガは動画になってアニメと呼ばれるようになったし、コンピューターを駆使したCGになった。現実のものと思えるような映像が自由につくれるようになったので、マンガに頼らなくても空想の世界は広がったし、表現の方法は格段に進歩した。現に、昔のようなタッチのマンガはそんなにはない。緻密でカラフルなアニメーションであったり、CGであったり、実写とCGの組み合わせであったりして、リアル感のある現実離れをしたシーンはいくらでもつくられるようになった。
私は今、マンガやアニメを見ることはほとんどない。TVでも雑誌でも目にすることはない。唯一、映画でだけは見ることがある。ほとんどCGに近いものだけれど、娯楽としてのアニメ映画は迫力がある。しかし、私が一番多く利用し、接している情報伝達手段はやはりTV番組の実映像であり、新聞やスマホの活字である。いくらクールジャパンの代表格であるといってもマンガやアニメではない。
マンガやアニメといったものは、現在ではコンピューターによって作製されるCGとなり、精度や表現力といった面で圧倒的に進化したものになった。CGが旧来のマンガやアニメを駆逐していったと言ってもいいくらいである。そう考えると、マンガは近い将来古典となってしまい、私たちが知っているマンガ家は古典作家として、近松門左衛門だとか、葛飾北斎や写楽というような位置づけになってしまうのだろうか。
私がマンガを目にしなくなったのも当然のことなのかもしれない。