ノートのとり方 創造力を発揮するための方法
罫線付きノートと白紙のノート
【2008年7月記載】
ノートをとるとは、どういうことなのか。通常その目的は2つ。ひとつは誰かが言った事もしくはなんだかの現象を記録し、残すこと。もうひとつは、それに加えて自分の考えを記録し、自由に発想を広げること。私はそう思っている。
だからノートはきれいにきちんと取る必要は無く、何が書いてあるのかが分かればそれでよい。むしろ丁寧に詳しく分かりやすくまとめようとして必要以上のエネルギーを費やすのは無駄である。だから、ノートはきれいに取れるようにフォーマットされている罫線つきのものよりも、書きやすく発想が広がりやすい白紙のものが好ましいと思っている。
ところで、学生時代に実験ノートというものを使ったことがある。これは分厚い市販の罫線入りのもので、教官から受けた説明で唯一頭に残っているのが、「発明や発見が、いつ、誰によってなされたかを証明するためのノートであるから、余白を残さないように、きちんと順序良く記録していかなくてはいけない」というもので、とても使い難く、精神的にも、思考的にも、なんだか束縛されているように感じたものである。このことに代表されるように、「ノートを取る」ということは、物事を正確に、順序立てて、しかも誰から見ても分かりやすく記録することだと思っていた。
学校で教えられた「ノートを取る」とは、かように記録のための作業であり、そうであるから、できるだけ丁寧にわかりやすく、正確でなくてはならなかった。しかし、受験を控えた高校生の時には、ノートを見直して、その内容を記憶することなんてことはあまり必要ではなく、記憶する手段としては、教科書や参考書を見ればいいのだし、問題集で確かめた方が効率はよかった。当然のことながら、ノートを使って自分の発想や創造力を展開することなんて、必要なかった。つまり、この頃はなぜノートを取るのか、その意味が分からなかった。ノートは、受験生にとって無用の存在であったといっていい。
これが大学生ともなると、教科書や参考書は高校生の時とは違って、量も種類も極端に少なくなる。それに応じて講義のノートは重要度を増してきた。ノートを取らないと話にならないのである。ここでは所謂本来のノートの意義が出てきて、誰が見ても分かるようにきれいに取られたノートは、誰からも重宝された。
きれいに取られたノートを作成するためには、何が必要なのか。それは誰でもきれいにバランスよく記録することができるように、フォーマット化されたものが良いに決まっている。罫線が入ったノートが一番シンプルで使い易い。だから、今売られているノートのほとんどが罫線入りなのは頷ける。ノートは美しく記録するものなのである。
情報が少ない時代にあっては、ノートの役割は情報を正確に分かりやすく記録することにあったように思われる。しかし、情報化が当たり前となっている現代においては、もはや正確に分かりやすく記録するという行為は、必要ではなくなってきている。ノートの使命は終わったのであろうか。
否、ノートにはもうひとつの意味がある。自分の考えを記録し、自由に発想を広げること、である。私たちは、ノートはきれいに取っていつ人に見られても恥ずかしくないようにするべきだと教わってきたような気がする。ノートは美しく記録したものが最高だとする考えである。ノートは自分のために使うのだということをいつしか忘れてしまったようだ。他人のためのノート、誰かに見られても恥ずかしくないノート、そんなノートの取り方を教わってきた。しかし、それでは役に立たない。自分のためのノート、自分が分かればいいノート、そういうノートの取り方をしなくてはいけない。そう考えると、ノートを使って知識を増やすことはもちろんであるが、それ以上に、自分の考え方や発想を広げ、頭の中を活性化させるノートの取り方が一番優れているように思えてくる。思考の自由度を広げていくために使うノートである。
もう、ノートに罫線なんて要らない。フォーマットされたものの中では、おのずと制限が出てくるに決まっている。ノートは真っ白なものがいい。何も書かれて無いものがいい。そして、できるだけ大きなノートがいい。どこまでも思考が伸びていくように、広がっていくように、書くスペースが大きければ大きいほどいい。ノートを取る時も左隅から書くのではなく、真ん中から書くといい。右にでも左にでも、上へも下へも行けるように。
こんなノートの取り方をすれば、必ず閃きが生まれてくるに違いない。発想が広がり、自分の考えが見えてくる。真っ白なノートを使うようにしよう。創造的な仕事をするためには。