もうすぐ年の瀬、しかし季節感も非日常感も抱かないまま私たちは暮らし続けている...

便利であるということは

【2015年1月記載】

この年末から元日にかけては、男三人で過ごした。長女は嫁ぎ先の実家で正月を迎えることになったし、妻は一人で暮らしているお母さんと一緒に正月準備をするため年末から広島の実家に帰っている。男三人といっても、長男は大晦日まで病院に張り付いたままだし、次男は金融業務なので30日まで出勤となり、実質我が家にいるのは私一人だけ。前もって、妻が年末年始のやるべきことはすべて済ませていてくれたので、私としてはこれといってやることはない。自分の身の回りのことだけでいいので、家事としての負荷も少ない。

ということで、いつになく自分の時間があったので、十分頭の中の整理ができたし、新しい年にかける思いもしっかりと心の中に叩き込めた。

この間、家事の内容としては、調理、洗濯、掃除であるが、調理は妻が食事の作り置きや冷凍食品を十分用意してくれていたので、買い物に出る必要もなく、適当に“チン”すれば事足りた。また、洗濯や掃除は2、3日まとめてすればよく、手間はかからない。

一番の課題は、大晦日と元日をどう過ごすかである。この二日間は長男と次男が家にいる。食事をどうするか...。しかし、意外にもこれは問題なかった。ひと昔とはずいぶんと違うのだ。

大晦日は、夕方に長男を宿舎まで迎えに行って、そのまま男三人で、近くのすし屋にて食事をとる。ふぐ料理や寿司など結構リッチな夕御飯となった。そのまま帰宅し、TVを見ながら年を越す。元日は早朝に起床し、三人で東大寺へ初詣に行く。帰路、ファストフード店にて朝食をとり、昼は大型商業施設の食堂街にてランチコースを食べた。ついでに足りない年賀はがきをコンビニで調達し、帰宅した。全く問題ない。とっても便利で、何ひとつ不自由しない。大晦日も元日も、普段と変わらずに過ごすことができた。各家庭や店舗の正月飾りやTVの正月番組などで、特別な雰囲気はあるけれど、それ以外は全く普段の生活と変わらない。

お正月は特別な生活パターンで過ごす。お店や家事はすべてお休みとなり、食事はおせち料理で済ますことにして、家族全員がコタツを囲んでの団欒のときを過ごす。どこの家庭も、三が日はお休みをもらって一緒に過ごす。というのはもはや過去のものとなっている。

今やお正月やお盆だけでなく、日曜日も祝日も、お店はどこも開いているので、私たちのくらしに不便を来たす事は極端に少なくなっている。24時間オープンしているコンビニがあちらこちらにあるので、昼夜の差もなくなっている。いつ何時でも、どこに居ようが、欲しいものが手に入り、思ったままに行動できる。

24時間、365日、私たちの身の回りの生活環境は安定に保たれている。何でもできる状態にあり、何ひとつ不自由はない。ある意味、いつも日常状態であり、休日や祝祭日などの非日常的であるはずの日も、どんどん平日化し、日常化している。地域的な差も少なくなり、極端に言えばスマホとコンビニがありさえすれば、日々のほとんどの事が足りる。全く考えないで済む。何ひとつ事前に考え、予測し、準備する必要はない。タラタラと生活していても一向に差し支えない。生活のON/OFFに気を使う必要はない。気の向くままに生きていればいい。

私たちの生活環境が整い安定化することで、便利になっていく一方で、季節を感じたりすることもなく、年中行事に対する意識が希薄になっていく。自然に対しても、その中で生活する人々の文化に対しても、感じることがなくなって行きはしないのか。感じること、そして考えることをしなくなった私たちは、その時々の欲求に応えそれを満たしてくれる社会システムの中で、動物のように本能のままに生きることになりはしないのか。あまりにも便利になり過ぎてしまい、私たちは考える力を削がれてしまうのではないだろうか。