どうかとは思っていたけど、飲みニケーションは有効だった...

飲み会という交流の場

【2022年11月記載】

仕事を辞めて半年が経つ。当初思い描いたような老後生活とはいかず、毎日が家事と育児に追われている。ゆったりとした時間が流れていて、本を読んだり音楽を聴いたり時々京都や大阪に出かけて買い物やエンタメを楽しんだり、ゴルフに汗を流したりして、今までにはなかった生活を味わうはずだったのだが…。

しかし、今の生活が悪いとは思っていない。現役時代とはほとんど変わらない忙しさなので、リタイアしたことを半ば忘れている。リタイアしたような気がしない。だから、充実していると言えば、そうなのだろう。ただし、コロナ禍の影響もあってか、家から出ることはほとんどなくなった。妻が三次や東京へと毎週のように新幹線で飛び回っているのとは対照的に、私はほとんど家のまわりから外へ出ることはない。まるで、妻とは攻守が切り替わったというか、立場が全く反対になったようである。

今はそれを楽しんでいるのだけれど、ひとつ気が付いたことがある。この半年間というもの、飲み会というものにほとんど行っていないのだ。いくらコロナ禍で会食を控える傾向にあるとはいっても、この半年間はそれらを規制されていたわけでもないので、やはりリタイアしたことが大きいと思える。

私にとって、飲み会には大きく2つがある。ひとつは、飲み会(集まり)そのものが目的で実施するもの。同窓会、同期会(オンラインも含む)、法事などで、あらかじめ数ヶ月もしくは数週間前から計画、予定し、それに向けてみんなが集まってくるもの。忘年会、帰省時などの飲食もこれに類するものだろう。

もうひとつは、何かのついでに実施するもの。仕事帰り、出張先、イベントや行事の後で、関係者と一緒にやるものである。今の私には後者のものがほとんどなくなっているのが分かる。せいぜいサッカー観戦に行った後に一杯ひっかける程度で、○○のついでに…というのがなくなった。現役の時は日常的なものだっただけに、その違いは大きい。(その分、支出はほとんどないので、年金生活者にとっては経済的に助かるのだが…)

仕事というツールが無ければ飲み会は無くなり、人と人との交わりは極度に減少する。そして、人と話すことによって自らの心情や考えを確認するという作業ができなくなっている。また、他者の考えや気持ちを知る機会が少なくなり、思考する世界が狭くなっているということなのか。

今ひとつの飲み会そのものを目的とする同窓会や忘年会などは、未だにコロナ禍の影響を受けて社会的におおっぴらには実施できない雰囲気がある。そして、これらには必ず幹事がいてそれをするにはそれなりのエネルギーが要る。だから、この種の集まりはそんなに頻繁には実施できないし、その集まりの数もそんなにはない。ただ、参加するだけならハードルは低いのだが…。

飲み会のような集まる機会や意見交換をする機会をしっかり維持し、それなりに増やしていくことが必要だ。そのためには「何かのついで」を多くつくるか、自らが幹事となって飲み会(集まり)を実施するしかない。特にリタイアしてから後は、意識的に集まる機会をつくらなければならない。そうでないと、いつの間にか世間から離れ、時代から取り残され、活力が低下していくのではないだろうか。

たった今、Kさんが柿を持ってこられた。もう72才になるというのに、相変わらず元気で、柿と一緒に少しばかり心のエネルギーを頂いた。彼はリタイア後の生活に、新しい仲間との交流を増やしている。私も今は家事と育児で充実してはいるが、新たな交流の場を作っていく作業をしないといけない。それは何なのか、考え、行動しなくては…。