そういえば30年前は、危険物を扱う場所でも平気でタバコに火をつけていた...

注意書き

【1996年8月記載】

  研究所1階南の男子更衣室前のトイレに立つと、目の前の水道配管に【小便で汚さないで下さい】という貼紙がセロハンテープでとめてあるのが嫌でも目に入ってくる。更衣室前の実験室拡張の余波を受けてトイレが縮小されてしまい、使用頻度が高いのに狭くなった分、余計にトイレが汚れ易くなったのをみて、誰かが貼紙をしてくれたのだ。貼り方が水道配管の上にペタッとテープでとめてあるだけの状態なので、なんとなく不安定で、左右対称とはいえずバランスの悪さが目について仕方がない。その結果、その貼紙に書いてある注意を守るよう努力している自分に気づくことがたびたびである。

  ところが不思議なもので、総務センターのトイレにあるこれと似た様な注意書きには余り目がいかないのだ。おそらく用をたす時のあの若干口を空け気味にして天を仰ぐような視線から少し位置的にもずれているのだろうが、もう一つ、きちんとプラスチック樹脂に印刷してあるものを貼り付けているため、周囲とのバランスが良いので全く違和感が無く、周りにとけ込みすぎてしまってその存在が分からなくなってしまっているのだろう。

  注意を引こうとするものには、同じように【禁煙】とか【戸締り】の類の貼紙もある。いずれもそれらを設けた当初は、それを励行しようとする気持ちがあるのと、その貼紙なりが目新しいので十分注意を引くことはできる。しかしこれが日数が経ちいつの間にかそれが掲示してある周囲の風景に同一化してしまうと、その本来の意味を失ってしまい、人々は何も感じなくなる。だからこの貼紙もできるだけ非日常的なものにする必要があり、できるだけ周囲の環境から逸脱したものとしなければならない。

  ところでいったいどれくらいの時間が経てば、人々はこういった注意書きに慣れてしまってそれを感じなくなってしまうのだろうか。いつでも新鮮に感じることはできないものなのだろうか。どうも私たちには物事をすぐに忘れてしまうのと同様に、物事にもすぐ慣れてしまう能力が備わっているみたいである。だからいろいろな注意書きをあちらこちらにペタペタ貼っても結局のところ無駄なのである。ただその注意書きがあまりにも特異であるとその効力は長続きするように思うのだが。  この注意書きの場合のように、人の行動に対して新たな注意や規制を加えようとする時に一番効果的な方法としては、できる限り非日常的なものでもって訴えることであり、それも慣れが発生する前に違った手段に切り替えて目先を変えることである。例えば貼紙の位置を定期的に変えるとか、貼紙の色、大きさや形状を変えていくことも大切だ。私たちは問題が発生したときに、その対策の一つとしてこういった注意書きを掲示するが、いつも掲示してしまうと、「これで大丈夫だ」といった安心感を持って終わりである。その注意をどう継続していこうかという意識はほとんど無いのが実状だ。実験室や居室のいたるところに、何種類もの注意書き、スローガン、ポスター等が数年前から貼ったままというのも、今の実態を表しているのだろう。もう一歩踏み込んでここらあたりの対策まで良く考えることが必要だ。そうすれば実験室の【火気厳禁】あるいは【禁煙】と赤紙で表示した注意書きの元で、悠然とタバコを吸うという現象も無くなっているはずである。

  その結果、非日常的なものが日常的な行動を呼び起こすこととなり、最終的には問題対応行動が習慣化していくことになるだろう。つまり非日常的行動が新しいものを日常的行動の中へ結び付けることになる。日常的行動の範囲を広げるためには、非日常的行動を積極的にとらなければならないとも言えるだろう。

  注意書きやスローガンはせめて移動可能なものとして、少しでも目先を変える努力をしようか。