そういえば30年前に大病をしたんだっけ...時代によって価値観は変わる

価値について

【1995年2月記載】 

「やっと、休みになった。」
土曜日の朝は何とも言えないくらいに心が和む。上の二人の子供たちが小学校に行ってしまうから多少なりとも家の中は静かになり、くつろいだひと時を過ごすことができる。仕事からも解放されて・・・。

  ところがこの日は、何となくおかしい、顎の辺りが妙にぷっくらとしている。左の顎の下が腫れている。別段特に痛みがあるという訳でもないけど、何だかこぶとりじいさんみたいになるんじゃあないかと不安になってきた。そういえばこのところ風邪気味で体調を崩していたし、何をやいわん、昨年からの無理無茶が崇ったのかも知れない。あれだけ毎日夜遅くまで仕事をし、飲み回っていたのでは普通の人でもダウンしてもおかしくなく、この体力の無い私がそういつまでもそんな無茶を続けられるわけがないのに....もう少し、自重すべきであった。

  急いで行き付けの医院で診て貰ったのだが、先生の仰るには、
「リンパ線という理由でもないし、何か塊があるわけでもないし、よく分からないなぁ。一度口腔外科でよく診て貰った方がいい。ここら辺りでは京大病院に行くしかないけれど、行ってみるか。紹介状を書いてあげるから。」
この先生、患者に対して必要以上に親身になって診てやるというタイプではないけれど、なかなか症状を分かり易く説明してくれるので有難い。

  ところで、"病気"で思うのだが、私はどうも普通でない様な病気、ちょっと変わった病気によくなる。二十年以上も前の事になるけれど、高校二年生の夏、ある晩咳が出てしようがなく、その内に胸が締め付けられる様になり、痛くてたまらなかった。痛みはその夜がとてもひどく、翌日にはそれでもどうにか治まった。近所の医院に行って診て貰ったら、単なる夏バテだと言うことでビタミン剤らしきものをもらっただけであった。それから1~2週間して予備校の夏季講習を受けるため、一人で島根県より上京したのだが、やはり調子が悪く体が思うように動かないので、従姉妹の勤めていた大学病院で診てもらった。レントゲン写真で見ると、肺がしぼんで水が溜っているのが分かり、即刻入院する羽目になってしまった。自然気胸という病名で、成長期の痩せ型の人に多く発症するらしく、レントゲンで見れば一目でそれと分かるものであった。その頃私の住んでいた所があまりにも田舎で、レントゲン設備も碌にないところだから、分からなかったのも仕方がないと言えばそうなのだが、診察のレベルが低すぎたのも確かだ。それからは、私にとってはレントゲン設備のある医者が必要であったし、そういった医者を探して、わざわざ半日かけて通院したことも度々であった。当時、"レントゲン"それが一つの価値であったように思う。

  これとは別に、七年前にも珍しい病気にかかったことがある。年末から年始にかけてどうにも体が思うように動かなくなり、すぐ疲れてしまうし、咳がひどく出る。残業時間になるともういけない、途端に力が出なくなり、体がだるくなってしまうのだ。そこで奈良県立病院で診てもらった。この頃には設備も技術もどこも充実してきていたのだが、診てもらった人が悪かった。何でも副院長だとかで、すごく偉ぶった感じのあまりいい印象のしないお医者さんであった。
  「どうしてこうも体がだるくなるのでしょうか。原因は何でしょうか?」
と尋ねると、その副院長はひどく気分を害したみたいで、怒ったような口調で黙っとけと言わんばかりに、
  「きみは私に意見する気か..。」
私は、ひどく悲しくなってしまった。何故病気の人が自分の病気に対して知ろうとしては行けないのだろう。なるほど病気の原因を見つけたり、治したりするのは上手かも知れないが、あまりにも患者に対して"診てやっているのだ"という昔ながらの気持ちが強すぎるのではないか。相手の立場になって物事は考えなくちゃあいけないのに..。病気の検査の為に三日間入院していたが、その間例の副院長が一回だけ"副院長診察"とかで、数人の医者を従えて私たち患者をみに来てくれたけど、少しも有難く思わなかったし、表面的な診察で何が分かるものかと逆に反発さえ覚えた。本当にこの人は偉いのだろうかと..。

  医者と患者の関係を考えたとき、あくまでも医者は患者の病気を治してこそ医者であり、その為には患者の立場・願望と言うものをよく理解し、それに応えていかなくてはいけない。最初の例は基本的な医者としての能力や医療設備といったものが充分でなかったために、満足に治すことができなかったというものであり、二つめの例はそういった基本的なものは充分であったが、単に肉体的に、物質的にしか患者を扱えず、患者の望むもう一つの面の医療が欠落していたと思われるもので、「自分の病気をしっかり認識したい。不必要な不安から逃れたい、心を落ち着けたい。」という精神面でのニーズに応えられなかった顕著な例であろう。

  医療一つとってみても、患者側からの要望にはある程度不変的な要素は多いものの、その時その場所で色々なものがあることが分かる。このように需要側と供給側のものの価値を考えることはとても重要であり、常にそれは何かを考え続けたり、問い直したりしないと世の中の流れに取り残されることになりかねない。

  ところで、果たして当社はどうだろう。創業者の時代の考え方をそのまま受け継ぐことがあたかも正しいかの様に考え振舞ってはいないだろうか。

「価値は変化する」

  我々はメーカーとして商品を開発、生産し、販売することにより、その商品の持つ価値をユーザーに供給してきたが、その商品の持つ価値は今も昔も同じなのだろうか。経済は新結合(イノヴェーション)を推進する企業家により発展し、新結合としてあらゆる形での開拓が行われ、私たちの暮しを変えている。いつも環境は変わっていると考えるべきであり、昔の価値観をそのまま抱え込んではいけない。求められるものは随分と違って来ている筈である。エアコンとか給湯機は一昔前ならそれこそ部屋が涼しくなりさえすれば、熱いお湯が出さえすれば良かったし、より快適に涼しくするための或は適度な熱さのお湯を得るための技術を追求し、機能を付加したり高めたりしていけば良かった。しかし、いま求められているのは、実際に使っている時のエアコンのほこりフィルターの交換や急にお湯が出なくなった時の対応の早さである。商品が高機能化、高性能化する一方で、確かにユーザーの求めるものも変わってきている。最早こういった従来からの商品については、その価値は単に今有る機能を高めるだけでは充分ではなくなってきている。よりユーザーの立場になって、商品を使う身になってその価値を考え直すことが必要になっている。生活に密着した研究が、生活者の価値を新たに生み出す開発が、我々メーカーに要求され出しているのだ。

  我々も、昔の考え方で商品を開発するのはヤメにしよう。