お盆ですね。私のふるさとは30年前に無くなったけど...

ふるさとを思う  その1  奈良にて

【1995年7月記載】

  山陰地方は何もないところだ。名所旧跡として松江、出雲、鳥取砂丘そして萩や津和野があるにすぎず、昔からこれといって大きな産業もない。"過疎"という表現もこの中国山地の農村部からでた言葉らしい。だから高度成長期には人がどんどんいなくなってしまい、今ではもうこれ以上減らないという程にまで減って、人はいなくなってしまった感がある。

  そんな山陰の山間の村、湯谷で私は生まれ、そして育った。バスは一日に2本、朝と夕方来るのみで、この朝の便で新聞はやって来る。お客さんが降りて来るのと一緒に、車掌さんが新聞の包を村でただ一つのよろず屋に降ろしていったものだ。
  夏ともなればこのよろず屋に、父と一緒に釣り道具を買いに行き、家のすぐそばを流れている小川で、ハヤやアカモチを釣って遊んだ。小川の水は冷たくとても気持ちがよかった。ただ私はとても臆病だったので、ヘビが居はしないか、ハミは出てきはしないか心配でいつもビクビクしていたが..。
  あまりにも釣る人がいないので餌はなんでもよかった。2~3時間もするとバケツはいつも一杯になっていた。バケツから魚が飛び出さないように、笹の葉を水面に覆い意気揚々と帰った。そうすると決まって小作のすみっつぁんが、
「ほう、よくとれましたなぁ」
と言ってくれるのだった。そのあと食べる西瓜はとても冷えていて美味しかった。当時は冷蔵庫なんてものはなく、いや必要がなく、野菜や果物は山裾から湧き出る泉に浸しておくだけで良かった。何しろその泉ときたらあまりにも冷たくて、10秒と手を入れてはおられないくらいだったのだから。この泉は勿論みんなの共通の宝だった。
  夏は確かに暑かった。けれど家の中はヒンヤリとして涼しく、夜ともなれば蚊帳をつって寝ていたけれど、ややもすると布団が要るくらいであった。家の周りには何もなかった。ただ田圃と畑と垣根があるだけ、当然のことながら隣家は遠く、虫の声がいやにうるさかった。
  しかし私の父母は共に教員をしており、山間部を転々としていたので、この湯谷にいつも居ることはできなかった。そのうち祖父が死に、住居も市部に新しく構えたことや、小作のすみっつぁん一家も歳をとり田圃仕事もできなくなり、折からの減反政策の為もあり、10年くらい前からわが家もついに休耕田とすることにして、湯谷の家は廃屋と化してしまった。家も、田圃も、畑も、木や山も....いったいどうなっているのだろう。

  ある日曜日の夜、いつものように奈良から島根の父へ電話をした。母の病気は大丈夫か、弟一家とは仲良くやっているか、ありきたりの話をしている内に、父がふうっと、
「湯谷の土地を売ろうと思う。以前から温泉が出るという話は知っていただろう、その温泉を使って村おこしをするらしい。なんでも、湯谷温泉開発計画として農村景観活用交流施設を造るらしい。温泉の出る集会場やロッジを造るみたいだ。そのためには、うちの土地が最適らしいのだ」
「ただ、休耕田だし、町が買い上げるので、坪千円くらいでほとんどお金にはならないのだが、どうだろう売ってもかまわないか」

  残念だった。思い出がたくさんある家や田畑なのに、とうとう無くなってしまうのだ。先祖伝来の土地という思いがとりわけ強い訳でもないけれど、人の歴史が止まってしまう様で寂しくなった。

  今も村に住んでいる人たちのためには、それが一番の方法なのだろう。しかし私の頭の中には朧気ながらにではあるが、(何かの時には湯谷がある。そこに帰ればいいじゃあないか。)といった気持ちがあり、ある種の心の拠り所として捉えていただけに衝撃は大きかった。
  意外にも、父や母は簡単に決めたような感じだった。
「まだ、少しは残っているんだから」と。
  私のふるさとが無くなる。