「Deja Vu」と「Vuja De」同じようだけれど、Vuja Deはなかなか体験できないね
デジャブ
【2013年4月記載】
初めてこの言葉に出会ったのは、高校生もしくは大学生の時であった。当時流行っていたCSN&Yのアルバムのタイトルがこの「Deja Vu」。何と読むのか良く分からなかった。もちろん意味など分かりはしなかった。そのあと何年か経った後に、はじめてその意味を理解できた。既視感だと。
初めてみる光景なのに、以前に見た覚えがあるというような感覚がデジャブであり、私も幾度となく体験した。が、その体験もここ数年はない。ただ、既視感を体験すると、しばらくはそれがために、その次の行動がとりにくくなる。「以前はこのようなシーンでどんなことがあったのだろう」とその先を考えると、そこで時間が止まってしまう。まるで魔法にかかったような気分だ。
ところで、この反対の言葉がある。「Vuja De」ブジャデで、その意味するところは、何回も見ているのに、初めてのように新鮮に感じることをいう。この感覚が生じれば、しめたもので、新規事業創出のきっかけとなる可能性があると思っている。
過去に何度も見たり、経験していることが、ある日突然、新鮮なものに見えてくる。今までとは違った世界が飛び込んでくるのだから、新しい発見に違いない。発見は革新に繋がるし、革新は新しいものを生み出す源である。残念ながら、私にはその体験がない。
このブシャデを体験するためには、特別な課題意識を持っていないとだめで、この課題意識があるからこそ、普段は気付かない日常的なシーンからも、経験したことのないような新しい気付きを得ることができるという。本当にそのようなことが体験できるのだろうか。
気持ちの持ち方によって、あたりの景色が違って見えることは確かにある。気分が晴れやかだと、空ゆく雲の形や道端の草花までが新鮮に感じられるし、気分がすぐれない時は、あたりの景色はぼやけて見えるし、何も目には入ってこない。ブジャデは、気持ちのあり様が少なからず影響している。
ブジャデの例として、ニュートンが、リンゴが落ちるのを見て万有引力を発見したこと。ワットが、池の水が排水溝に吸い込まれていくのを見て、蒸気機関改良を思いついたこと。ガリレイが、大聖堂のシャンデリアが風によって揺れるのを見た時に、振り子の等時性を発見したこと。湯川秀樹が、キャッチボールをしている時に中間子理論を思いついたこと。等があると思う。
しかし、これって、何の不思議でもないし、魔法のことでもない。課題として持っていたものが、日常的な1シーンの中で、紐付けされたにすぎない。ブジャデってそういうことなのだろう。デジャブは、記憶回路の障害のような気もして、それに特別な意味はないと思うのだが、ブジャデは明らかに個人の思考力や推察力によるところが大きい。是非、これがブジャデだと思えるシーンが訪れるよう、努力していきたい。